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これはグレンシス達がサチェ渓谷を後にして、数日してからのおはなし。
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夏は夜。月の頃はさらなり。
夜の帳が下りる頃に賑わい始めるメゾン・プレザンは、この季節は特に活気がある。
娼婦達は、殿方に一夜の最高の夢を見るために理想の女性を演じ、シェフは殿方の胃袋を唸らせる至高の一品を作り、楽団はせっせとムード作りのための音楽を奏でている。
そんな中、館の女主人であるマダムローズは自室の執務机に腰掛けて、涼し気な様子で帳簿を付けていた。
「……ティアは、今頃、どうしているのかねぇ」
王宮の財務室でも思わず二度見してしまいそうな金額をさらさらと記入していたマダムローズは、手を止めて窓に目を向けた。
ひょんなことからティアがこの娼館から姿を消して、既に一ヶ月以上経過している。
出入りの激しい娼館で、人一人が消えたところで、そう騒ぎ立てることではないけれど、それがティアとなれば話は違う。
まず娼婦から散々寂しいだの、恋しいだのという愚痴が出た。
次に使用人一同から悲痛な声で、にっちもさっちもいかないから、ティアの帰還を早めてくれと訴えられた。
それらをマダムローズは、時には「はいはい」と聞き流し、時には「お黙り!」と一喝してやり過ごしているが、マダムローズ自身だって寂しさを覚えている。
「元気でやっていればいいけれど……」
女帝と謳われているマダムローズだって、血の色は赤だ。
守銭奴と陰口を言われようが、悪魔とののしられようが、我が子のように思っている少女を人並みに心配する気持ちはある。
「なぁーに、心配いらないさ。うちの若い奴らがしっかりと護衛している。今頃、物見遊山で楽しく過ごしているだろう」
そう答えたのは、騎士服の上着を脱いでソファでくつろぐバザロフだ。
マダムローズの自室は、娼館の人間達にとっては立ち入り禁止区域である。ティアであっても、気軽に足を踏み入れることはできない。
けれど、この初老の男性だけは違う。
バザロフはこの娼館の本当の主であり、マダムローズと長い長い恋情を交わした仲だからだ。
ちなみにバザロフは、ティアが怪我を負ったことも、オルドレイ国の王族の前で、アジェーリアから大々的に友達宣言を受けたことも、まだ知らない。推測だけで、口にした。
けれど、次に発した言葉には確信を持っている。
「ま、とある騎士から口説かれてるかもしれないがな」
バザロフは意味ありげに、マダムローズに向かってニヤリと片側の口の端を持ち上げた。
王城は、数々の噂が行き交う場所でもある。
そこで長年働くバザロフの元には、高位の役職ということもあり、たくさんの噂話が入ってくる。
普段はそういう類のものは、くだらないと右から左に聞き流すバザロフだったけれど、その中の一つに、とても興味深いものがあった。
長年、浮いた話など聞いたこともなく、実は男色家ではないかという疑惑すら浮かんでいるイケメン王宮騎士は、実は名も知らない女性を想い続けている──というもの。
惚れたきっかけは、騎士の窮地を救ってくれた天使だからということで……。
死線を幾度も切り抜けてきたバザロフはとてもカンが良いので、すぐにピンときた。
試しに護衛という名目で、その二人を引き合わせてみれば、まんざらでもなかった。
「こりゃ、花嫁衣裳や持参金やらで、物入りになりそうだな。ああ、儂も礼服を新調しなければいかんな」
堅物のエリート騎士が、結婚願望を捨てている少女を必死に口説く姿を想像し、思わず笑みが零れる。
誰の目にもわかるくらいウキウキしているバザロフだが、大変厳つい顔をしている。その顔に耐性の付いていないものなら、軽くすごまれた程度で、10日間は悪夢にうなされてしまうほど、怖い顔をしている。
けれどバザロフに対して耐性が付いているメゾン・プレザンに身を置いている者は、陰でこの初老の男性のことをこう呼んでいる──パパロフと。
「ま、私も、ティアの全部を知ってそれでもって求婚でもしてくれる男が現れてくれたなら、肩の荷が下りるってもんだけどねぇ」
マダムローズは、亡きティアの母親から「娘に人並みの幸せを」と願いを託されている。
バザロフも大きく頷くが、すぐにニヤリと笑う。
「そうだな。なら、ひさびさに賭けをしないか?リリー」
「はぁ!?」
不意打ちで本名を呼ばれたマダムローズは、動揺を隠せなかった。
過去、バザロフがこういう流れで、何かを提案するときは決まって”あの事”しかないからだ。
嫌な予感は、確信となった。
「もし、ティアがこのまま誰かに見初められて、ここに帰らなかったら、な?」
「な、なにさ」
「儂の妻になってくれ」
「……」
マダムローズは腕を組み、うんざりとした表情を作る。
「お前さん、まだ懲りてなかったのかい?」
「当たり前だ」
バザロフは眉を上げてあっさりと答えると、マダムローズが口を開く前に、言葉を続けた。
「戦争の最前線に送られたのに死ななかったのも、こんな老いぼれになって、いい加減こっちに来いと戦友が手招きするのを突っぱねているのも、何でかわからないのか?」
「……」
再び、マダムローズは口をつぐんだ。そして、長い沈黙の後──
「1杯呑むかい?」
話題を変えることを選んだ。
それは、いっそ拍手を送りたくなるほど強引だったけれど、バザロフは目元を柔らかく細めただけ。
こんなやり取りは、いつものこと。いや、ぴしゃりと跳ね除けられなかったのは、バザロフにとって喜ぶべきことだった。
なにせバザロフは、マダムローズに手を変え品を変え求婚をし続けているが、一度も是という返事はもらえていない。
それでも、バザロフは諦めるつもりはない。死ぬまでに求婚を受け入れてくれればいいと思っている。彼は、どこかの王宮騎士とは違ってとても気が長いのだ。
「ああ、もらおう」
低く甘い声が部屋に響く。
無言で頷いたマダムローズは、チェストから酒とグラスを取り出し、ソファの前のテーブルに置く。
そして酒の栓を抜きながら、小さな声でこう言った。
「……考えておくさ」
「ああ、そうしてくれ」
曇り一つなく磨かれたグラスが、琥珀色になる。
それを同時に見つめた二人は、駆け引きを放棄した大人の表情だった。
夏の夜は短い。けれど、月はまだまだ高い位置にある。
二人の夜は、これからだ。