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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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自動車は、雨の中を西へ走った。
後ろの座席で、お鈴は私の膝に濡れた額を押しつけたまま、まだ肩で息をしていた。
「今日の昼過ぎです。御前様が、お一人で厨房に入られて、何か作っておいでだって、ハナさんが噂していて」
冬馬様が、前を向いたまま、黙って聞いている。
「そうしたら、タキさんが、あたしを女中部屋の奥に呼んだんです。御前は奥様を迎えにいらっしゃるおつもりだろう、って。お戻りになったら、奥様にだけお話ししなければならないことがある。藤の間の、葡萄酒のことで、って」
「それだけか」
「はい。でも、タキさん、ずっと手を握りしめていて。……あんな怖い顔のタキさん、初めて見ました」
お鈴は、ぶるっと身を震わせた。
「お戻りにならなかったら困るから、本所まで行って、奥様に必ずお伝えしろって。電車賃を、あたしの手に押しこんで」
藤の間の、葡萄酒。
本所へ帰される朝、門の脇で、タキさんは何か言いかけた。あの冬の、藤の間の、と。
そして、口を閉じた。あのとき、真柴さんが、自動車の扉に手をかけて、こちらを見ていたから。
「お鈴。本所へ行くことを、誰かに話した?」
「いいえ、誰にも。勝手口から、そうっと出ました」
お鈴は、少し考えてから、付け足した。
「家令室の窓が開いていて、明かりがついていましたけど。誰もこっちを見てはいませんでした」
冬馬様の、手袋の手が、膝の上で握られた。
「タキは、私の乳母だ」
前を向いたまま、冬馬様が言った。
「小夜子が死んだときも、千鶴が死んだときも、何も言わなかった。私が訊いても、存じませんと。……それが、なぜ、今になって君に」
答えは、わかる気がした。
タキさんは、ずっと誰かを疑っていて、誰も信じられなかったのだ。私が、あの家で、そうだったように。
私は、冬馬様の握りしめた手の上に、自分の手を重ねた。
運転手が、もう一段、速度を上げた。
*
鳥居坂の門をくぐったのは、九時を過ぎたころだった。
和館は、しんと静まり返っていた。
玄関の電灯が一つ、ぼんやりと点いているだけだ。雨垂れの音しか聞こえない。
お鈴が、女中部屋のほうへ駆けていき、すぐに戻ってきた。
「タキさん、いません。ハナさんが、半刻ほど前に、和館の奥へ行くと言って出ていったきりだって」
冬馬様が、靴のまま式台に上がった。
私も、草履を脱ぎ捨てて、あとを追った。
廊下は暗かった。和館の奥へ向かう角を曲がると、二階へ上がる階段がある。急な、踊り場のある階段だ。
いつもは、踊り場に掛け行灯が灯っている。夜通し消さないのだと、嫁いだ頃にお鈴が教えてくれた。
その行灯が、消えていた。
階段の下の暗がりに、何かが横たわっていた。
黒い筒袖。白い前掛け。
「タキ」
冬馬様の声が、廊下に響いた。
タキさんは、階段の一段目に頭を向けて、うつ伏せに倒れていた。
白髪混じりの引っ詰め髪が、ほどけかけている。こめかみのあたりから、黒いものが板の間に広がっていた。
冬馬様が膝をつき、タキさんの首に指を当てた。
私は、息をするのを忘れていた。
「……生きている」
冬馬様が、かすれた声で言った。
「息はある。お鈴、電灯をつけろ。それから電話室へ行って、坂下の野々村医院を呼べ。急げ」
お鈴が、泣きながら走っていった。
*
電灯がつくと、血の色が、はっきりと見えた。
私は、タキさんのそばに膝をついた。
手拭いを、こめかみに押し当てる。タキさんの顔は、紙のように白かった。唇が、かすかに動いている。けれど、声にはならない。
「タキさん。栞です。帰ってきました」
返事はなかった。
タキさんの右手が、胸の下で、固く握りしめられていた。
指の節が、白く浮いている。何かを、離すまいとしているように。
私は、その指を、一本ずつ、そっとほどいた。
手のひらの中に、小さな赤いものがあった。
親指の爪ほどの、赤い欠片。蝋だった。表に、何かの刻印の一部が残っている。丸い輪の、半分。その内側に、細い線が二本。
「封蝋だ」
冬馬様が、私の手のひらを覗きこんだ。
「薬用葡萄酒の瓶の、口の封だ。……藤の間から持ち出した瓶にも、同じ色の蝋が、首のところに輪になって、少しだけ残っていた。封は、切られたあとだった」
冬馬様の声が、低くなった。
「切られた封の残りを、タキが、持っていたのか」
あの冬は、お寒うございました。
藤の間のものは、早くお仕舞いなさいまし。
タキさんの言葉が、次々に耳の奥でよみがえった。
小夜子様の日記にも、あった。タキに笑はる、と。
小夜子様の枕元へ、毎晩、葡萄酒を運んでいたのは、誰だったのか。
私は、赤い欠片を、手拭いに包んで帯の内側にしまった。
雁皮紙と、罫紙の隣に。
*
階段の上を、見上げた。
二階は、閉め切りの部屋ばかりだ。藤の間と、萩の間。あとは物置。
こんな夜更けに、タキさんは、何をしに二階へ上がったのだろう。それとも、上から降りてくる誰かと、ここで行き会ったのか。
踊り場の掛け行灯は、油が尽きたのではなかった。お鈴が後で確かめると、皿には油がまだ半分残っていた。
誰かが、吹き消したのだ。
廊下の奥から、足音がした。
灰色の背広に、黒い腕カバー。真柴さんだった。
いつもきっちりと分けている髪が、少しだけ乱れていた。額に、うっすらと汗が浮いている。十一月の、雨の夜なのに。
「御前。奥様も。……これは」
真柴さんは、階段の下を見て、立ちすくんだ。顔が、青ざめていた。
「家令室で帳簿をつけておりました。何の物音も、聞こえませんで」
それから、すぐに背筋を伸ばし、いつもの落ち着いた声に戻った。
「ハナ、キヨ。湯を沸かしなさい。清潔な晒しを。書生さんを起こして、戸板を」
集まってきた使用人たちが、その声で、一斉に動きだした。
真柴さんは、倒れたタキさんを見下ろして、静かに首を振った。
「足を滑らせたのでしょう。この階段は、急でございますから。タキも、もう若くはない」
寝間着に羽織を引っかけた大奥様が、廊下の角に立っていた。
扇を持たない手が、柱を掴んでいた。
「タキ……」
大奥様の唇が、わなないた。三十年近く、この家に仕えてきた女中頭だった。
大奥様は、私の顔を見た。何か言おうとして、言わなかった。
その脇をすり抜けて、寝間着の裾を乱した百合絵様が飛び出してきた。
「タキ。タキ、いやよ」
階段の下を見て、百合絵様は悲鳴を呑みこんだ。それから、振り返って、私を見た。
六日前、廊下で私に向けた、裏切られたような目ではなかった。
百合絵様は、何も言わずに私の胸に飛びこんできた。細い肩が、がたがたと震えていた。
私は、その背中を抱きしめた。
*
野々村先生は、雨合羽のまま駆けつけた。
タキさんは戸板で女中部屋に運ばれ、先生が長いあいだ、枕元に座っていた。
「頭を、強く打っておられる。命は、今夜を越せば、たぶん」
先生は、眼鏡を外して、目頭を揉んだ。
「ただ、いつ目を覚まされるかは、わかりません。明日か、ひと月先か。……あるいは」
その先は、言わなかった。
女中部屋の外の廊下で、私は、柱にもたれた。
膝が、今ごろになって震えだしていた。
タキさんは、私に話そうとした。葡萄酒のことを。そして、話す前に、階段の下に倒れていた。
私が、帰ってこなければ。いや、もっと早く、帰ってきていれば。
誰かが、タキさんが話そうとしていることを知った。そして、私より先に、階段の上で待っていた。
帯の内側で、手拭いに包んだ赤い欠片が、小さく硬かった。
冬馬様が、隣に立った。
何も言わずに、私の手を取った。
指を絡めて、強く握る。痛いほどだった。
「もう、誰も死なせない」
その手は、ひどく冷たかった。
雨に濡れたせいだけでは、ないように思えた。
コメント
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第45話、読ませていただきました…。タキさんが倒れている場面、本当に息を呑みました。彼女がずっと握っていた封蝋の欠片が、あの冬の葡萄酒の手がかりだとわかるところ、ぞくっとしましたね。そして「もう誰も死なせない」という冬馬様の言葉の重み…。栞さんの手を握る手が冷たかったという描写に、彼の焦りや必死さが滲んでいて、じんときました。続きが気になります…!