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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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夜明けまで、私はタキさんの枕元に座っていた。
女中部屋の隅の、薄い布団。こめかみに巻いた晒しに、うっすらと血がにじんでいる。息は浅く、けれど途切れなかった。
障子が白んでくるころ、百合絵様が、湯呑みを二つ盆に載せて入ってきた。
寝間着の上に、綿入れを羽織っている。目が、腫れぼったかった。
「お義姉さま。洋館の厨房のお湯よ。お兄様が、沸かしてくださったの」
湯呑みを私の手に押しつけて、百合絵様は、私の隣に膝を抱えて座った。
しばらく、二人とも黙って、タキさんの寝顔を見ていた。
「あたくし、怒っていたのよ」
百合絵様が、ぽつりと言った。
「千鶴お姉様のお友達だったなんて。どうして、教えてくださらなかったの。あたくしだけ、何も知らないで、お義姉さまに千鶴お姉様のお話ばかりして」
「……ごめんなさい」
「謝らないで」
百合絵様は、膝の上に顎をのせた。
「六日、考えたの。それで、わかったわ。千鶴お姉様のお友達なら、なおさら、あたくしのお義姉さまだわ。千鶴お姉様が、きっとそうしてって言うもの」
私は、湯呑みを両手で包んだ。
冬馬様の沸かした湯は、少し熱すぎた。
障子の外に、人の影が差した。
冬馬様が、竹皮の包みを二つ、黙って敷居の内に置いた。中を覗かずに、そのまま戸口に背を向けて立つ。女中部屋には、入らない人なのだ。
包みを開くと、いびつな握り飯が、私のほうに四つ。百合絵様のほうに、二つ。
「お兄様、ひどいわ。数が違うじゃないの」
戸口の背中は、何も答えなかった。
*
朝のうちに、篠原さんが、渡り廊下を走ってきた。
絣の着物に袴、丸眼鏡が曇っている。手に、くしゃくしゃになった新聞を握りしめていた。
「奥様。坂下の停留所で、売り子がこれを。号外だと叫んで」
安っぽい、灰色がかった紙だった。
刷りの墨がにじんで、指につく。『帝都夜話』。
一面の見出しが、目に飛びこんできた。
「妻殺し侯爵の三人目 医師を毒殺か」
その下に、写真が一枚、刷りこまれていた。
罫紙に書かれた、毛筆の手紙。網目版で、粗く写してある。
添えられた説明には、「本紙が入手せる三人目の妻の手紙」とあった。
「あの先生さへ お黙りになれば すべて 済みます 栞」
息が、止まった。
私は、そんな手紙を書いていない。
けれど、字は、確かに私の字に見えた。「さ」の結びの小さく詰まる癖も、「栞」の木の、はねを控える書き方も。母に習った、私の手の癖そのものだった。
私は、帯からルーペを抜いて、写真に当てた。
網目の点が、灰色の紙の上で、にじんで潰れていた。安い紙に、安いインク。刷り機の圧も弱い。字の輪郭が、ぼやけた点の寄せ集めにしか見えない。
これでは、何もわからない。
罫紙の上の端に、紋の形だけが、かろうじて見て取れた。輪の中に、葉が五枚。今の紋だ。礼状の罫紙と、同じ紋だった。
礼状。
四月に家令室で、百通書いた。同じ文を、宛名だけ変えて、何十回も。
分家の御当主、旧藩士会の世話役、出入りの呉服屋。あの手紙は、今、帝都のあちこちの家にある。
私の字は、あの家の外に、百通ぶん散らばっているのだ。
記事は、毒々しい言葉で埋まっていた。
妻殺しの侯爵が、三人目に迎えたのは、二人目の妻の友であったという。その女は、屋敷を探るために嫁ぎ、己の過去を知る主治医の口を、侯爵邸の応接間で永遠に塞いだ。茶を淹れたのは、この女である。
「下劣な」
篠原さんが、唇を震わせた。
百合絵様が、私の手から新聞をひったくって、くしゃくしゃに丸めた。
*
昼過ぎ、和館の大広間に、人が集められた。
四十畳の座敷の上座に、大奥様。その脇に、赤ら顔の将臣叔父様が、葉巻の匂いを撒いて胡坐をかいていた。分家の御当主が二人、紋付き姿で並んでいる。
部屋の隅には、真柴さんが、帳面を膝に置いて控えていた。
冬馬様と私は、下座に座らされた。
「冬馬君よ、読んだかい、これを」
叔父様が、『帝都夜話』を畳に叩きつけた。
「親戚中の笑い者だ。いや、帝都中のだ。妻殺しの侯爵ってだけでも外聞が悪いってのに、今度は嫁が医者を毒殺だとよ」
「その記事は、でたらめです」
冬馬様の声は、平らだった。
「でたらめだろうが何だろうが、刷られちまったら同じことよ」
叔父様は、ぐいと身を乗り出した。
「宇佐美の件は、俺がせっかく、自殺で収まるように骨を折ってやったんだ。それをこの嫁が、ぶち壊しにしやがる。家名のためだ、冬馬君。この女とは、今すぐ縁を切れ」
分家の御当主たちが、もっともらしくうなずいた。
「宗秩寮の耳にも入りましょうな」
「侯爵家の体面というものが」
叔父様は、私をじろりと見て、鼻で笑った。
「千鶴の友達だったってな。屋敷の中を嗅ぎ回るために、借金の形の顔をして潜りこんだ。間者だよ、間者。千鶴も嗅ぎ回る女だったが、類は友を呼ぶってやつだ」
部屋の隅から、穏やかな声がした。
「僭越ながら」
真柴さんが、帳面を膝に置いたまま、深く頭を下げていた。
「離縁となれば、宗秩寮へのお届けもございます。すぐにとは参りますまい。その間、奥様には、世間の目の届かぬところで、御静養いただいてはいかがでしょう」
真柴さんは、顔を上げて、私に柔らかく微笑んだ。
「鎌倉の別荘が、空いておりますので」
鎌倉。
千鶴さんが、崖の下で見つかった別荘。
背中に、冷たいものが走った。真柴さんは、心から私を案じている顔をしていた。
大奥様が、扇を開いた。
「志摩のお嬢さん」
能面のような顔が、私に向けられた。
「あなたがこの家に戻った夜に、タキが階段から落ちた。あなたが来てから、この家では、人が倒れてばかりいる」
扇の先が、まっすぐに私を指した。
「冬馬さん。離縁なさい。これは、母としての頼みではありません。久遠寺の家を預かる者としての、言いつけです」
座敷が、しんと静まった。
私は、膝の上の手に、力をこめた。
帯の内側に、罫紙がある。鉛筆の溝のある偽の手紙。今ここでそれを出せば、話はさらにこじれる。宇佐美先生の懐から抜き取ったことも、うちの店が刷った紙だということも、すべてこの人たちの前に晒される。
言えなかった。
頭を下げて、出ていくしかないのだろうか。
*
隣で、衣擦れの音がした。
冬馬様が、立ち上がっていた。
そして、私の隣に、一歩寄った。私の肩に、手袋の手が置かれた。
「栞は、私の妻だ」
低い声が、四十畳の座敷の隅々にまで届いた。
「離縁はしない。鎌倉へも、やらない。妻は、この家にいる」
叔父様の口が、ぽかんと開いた。分家の御当主たちが、顔を見合わせる。
部屋の隅で、真柴さんの万年筆が、帳面の上で止まった。
「冬馬君、おめえ、正気か」
「叔父上。その手紙を、妻は書いていない。私が保証する」
「保証もへったくれも」
「慈善診療会で、私は言った。妻の目は確かだと」
冬馬様は、叔父様の言葉に、少しも声を荒らげなかった。
「その目が、これはでたらめだと言うなら、でたらめなのです。証は、必ず出す。それまで、この家の誰にも、妻を追い出させはしない」
肩に置かれた手に、力がこもった。
人前で、この人は、私の名を呼んだ。妻だと言った。
昨日、雨の路地で、初めて名前を呼ばれた。その名前を、今日はこの人の親族の前で、もう一度。
私は、顔を上げた。もう、うつむいている理由はなかった。
*
大奥様は、長いあいだ、冬馬様を見ていた。
それから、私に目を移した。
冷たい目だった。けれど、軽蔑とは、少し違っていた。値踏みをするような目だった。
ぱちり、と音がした。
大奥様が、扇を閉じたのだった。
「では、あなたが証明なさい」
扇の先が、もう一度、私に向けられた。
「この家の嫁にふさわしいと」
コメント
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おお…この話、すごかったわ…。号外の記事で栞さんが追い詰められていく流れ、手に汗握った。それでいて冬馬様が「栞は私の妻だ」って言い放ったシーンで全部持ってかれた。家族の前で妻を守る宣言、マジでかっこよすぎる。大奥様の最後の一言も含めて、次が気になりすぎる更新だった🔥