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ウィンチェスター大聖堂は、今日も“崩壊したまま”だった。
本来なら、復興工事が始まっていているべき──いや、始まっていなければ行政が黙っていないはずだが、工事など始まる気配も無い。
外に貼られた工事テープは色褪せて風に揺れているばかりで、誰ひとりとして中に入ってこない。国も自治体も、放置する時は見事なまでに放置する。
──とはいえ、今回に限っては行政に落ち度はないのだ。なぜなら、この一帯はすでに、私が“買い取っている”からだ。
工事中の看板も、フェンスも、テープも、すべてが“演出”に過ぎない。復興の意志など、微塵も存在しない。時間が止まっているのではなく、私が止めてある。嘘ほど役に立つ防壁も、なかなかない。
瓦礫は崩れたままで、壁は割れたまま。ここで爆発事故でもあったような──
何より。あの人の“影”が、焼き付いたまま残っている。
その影がどれだけ暖かったかは、私だけが知っている。
そう、世界で一人だけ。
私だけの愛。
私しか知らない。
本当の愛。
誰に知られる必要もない。
誰に証明する必要もない。
他の誰にも踏み込まれない、“私だけに向けた無敵の愛”。
動かず、語らず、ただ“私だけに意味を持つ焼け跡”。
だから、ここを手放すわけにはいかなかった。
工事が始まれば、いつかは消されてしまう。誰かの手が入れば、塗り替えられてしまう。復興が進めば、“あの人がいた証”が、世界から完全に失われてしまう。
それが嫌だった。
たったそれだけの理由で、私はこの大聖堂一帯を買い取った。
そう、行政から。
国から。歴史から。
感傷というには重すぎる、私だけの保守管理。
この影を護るためだけに──
他人には、ただの焼け跡。
私には──“永遠の父親”。
ウィンチェスター大聖堂を崩壊したまま残すべく、今では、私の隠れ蓑にしている。
本来なら、ここは“絶対に安全領域”のはずだった。
──“だった”、のだ。
「っ……く……ッ」
Lは、気づけば自分の爪を噛んでいた。
思考が先走りすぎて、制御を失っていた。
深爪になっても構わず──いや、痛覚が現実逃避の代償になるのならむしろ好都合とすら思えるほど、爪をガリガリと削り続けていた。
──やられた。
やられた。
やられた……ッ!!
思考回路の奥で、言葉にならない叫びが渦を巻く。端末の画面には、
【ALL DATA DELETE】の無慈悲な表示。
たったそれだけ。
けれど、そこに込められた意味は、致命的だった。
今、自分が最優先で追っていたデータ。
“クリエラの月”──中米難民消失事件に関する全ファイル。監視記録、FBIとの極秘通話、各国機関の報告書──
すべて。
全部。
跡形もなく、きれいに消されていた。
「……外部からの攻撃か」
Lはそう呟いたが、語尾には“疑問”でも“推論”でもなく、悔しさが滲んでいた。
あからさますぎて、むしろ悪意が透けて見える。それは“ただの事故”ではなかった。
5秒後、端末に新たなウィンドウが現れた。
電子メッセージが届いたのだ。
「……?」
件名は空白。受信日時は“未来の時刻”で、タイムサーバを操作された可能性すらある。
そして、本文。
スクロールバーはなく、表示されたのはたった一行。
> ∀x ∈ D ⊂ ℝ, ∃y ∈ Ω: f(x, y) = YOU.
数式。読めば読むほど理解が遠のく。
パズルなのか、挑発なのか、それとも暗号か──だが、目が離せなかったのはその下。
──”Eraldo=Coil”
奴だ。
しつこく、しつこく、狩人が網の目を編むように、私の正体を暴こうとしてくる──世界三大探偵のひとり。
他の誰でもない、“私の敵”としてそこに立っている。
まさか。まさかだった。
私のパソコンに直接介入してくるなんて……。
どうやってそんなことを──?
外部からは遮断していた。
ネットワーク接続は切断。
スタンドアロンの“密室”のはず。(コンピュータが完全に外部と切り離された状態)
誰も入れず、誰も出られない、鉄壁の端末。だったはずなのに……どうやって、奴がこの密室に介入できたというのか?
まず最も自然で考えられるのは、コンピュータウイルス。だが、それは即座に却下される。なぜなら、感染源が存在しない──外部との接触がなければ、ウイルスは侵入しない。……普通は、だ。
ならば、電波による攻撃か?
音響?熱波?光子?
それともファンノイズを読み取る超マニアックなリーク手法──?
「…………」
それはあまりにもマニアック過ぎないか?
電磁的・機械的・量子的に解体していけば、可能性ゼロではない。
ゼロではない、が──
だとしたら、面白いな。
いや、誤解しないでいただきたい。
“面白い”というのは、娯楽的な意味ではない。
ただ純粋に──「頭がおかしい」という意味での称賛だ。
そんな攻撃を選ぶということ自体が、もう狂っている。
いかに目的のためとはいえ、そこに行き着くまでの思考回路が尋常じゃない。
私が言うのだから、間違いない。何万人の裏をかき、何度も国を相手に情報戦を挑んできたこの私が「さすがにそれはやりすぎでは?」と、内心で引いている。
狂ってる。
エラルド=コイル。
相当、狂ってる。
私が言うんだから本当だ。
相当──狂ってる。
──しかし、さすがに、それはないか。
冷却ファンの“音”だけで私を特定するなど、有り得ない。
そんな芸当、理論上は出来ても、実行に移すには頭のネジが百本単位で外れている必要がある。
……だが。
その“百本外れている”可能性を、私は一度でも真剣に考えてしまった。
なぜか?
理由は単純だ。
──相手があのエラルド=コイルだからだ。
正直、奴がどんな手で攻撃してくるのか、私にも分からない。
ありとあらゆる非常識を、常識の仮面をかぶせて通してくる探偵だ。
サイバー攻撃の達人であることは周知の事実だが、それにしたって──まさか、冷却ファンの“音”で、私を特定するなんてことは……。
さすがに、ない。
それは、ない。
……そう思っておく。今のところは。
でも、こういう“ない”を平然と“ある”に変えるのが、エラルド=コイルという探偵の恐ろしいところなのだ。
もしも、私のパソコンから漏れる音を“指紋”のように解析して、モデルと照合し、そのファン音の微細な個体差から機種と個人を割り出していたとしたら──
……ああ、考えたくもない。
奴の頭の中では、きっと“やってみたらできた”という安直な事象が、日常茶飯事なのだ。
ならば──
“このパソコンをジャックする有効な手段”は?
OS? ハードウェア? ソフトウェア?
そんな枠組みすら最初から超越して、“出来上がった最初の段階”で、既に侵入されていたとしたら──?
……そうだとしたら、奴は、もっとおかしい。
もはや“天才”の範疇に収まらない。
世界が生み出したBUGだ。
誰もが最初に買う“新品のパソコン”──
その一台一台の奥深くに、「Eraldo=Coilの目」が付けられていたら?
──いや、既に仕込まれていたのだとしたら。
世界中のアップデート、初期ロット、マザーボードとチップセットとBIOSとファームウェアと、“信頼”そのものに、最初から彼は棲みついていたとしたら──
それはもうハッキングではなく、“設計”だ。
「情報を盗む」のではなく、「情報を持たれること」を当然の前提として世界を歩いていたことになる。
Eraldo=Coil。
「さすがだ……」
そして、唐突に──
「……羨ましい」と、ぽつりと呟いた。
世界のパソコンをジャックできるなんて、そりゃあもう、凄い。
普通に考えて凄い。
倫理とか犯罪とか以前に、“技術的に”凄い。
どれだけ時間がかかったのか。
どれだけ計画したのか。
どれだけ人の目を欺いたのか。
全部含めて、羨ましい。
さすがにこれは、私でもできない。
やろうとしたこともないけれど。
やろうとしたくもないけれど。
いや、やりたくは──
……ちょっとだけ、やってみたくなる。
だってそうだろう。
あれほどまでに、すべての情報を先回りして“見透かせる”というのは、探偵職にとってCHEATである。
犯罪が起きる前に構造を見抜いて、犯罪者の目線に立って、犯罪の起点を握りつぶしてしまえるような観測力。
それが、純粋に羨ましい。
正義とは、いつも後手であり──
探偵とは、常に誰かが傷ついた後に呼ばれる職業だ。
それが当たり前だと理解しているし、受け入れている。
だが、たまに、ほんの少しだけ──“逆側からすべてを見下ろせる知性”に、手を伸ばしたくなる。
エラルド=コイルは、それを持っている。
さすが世界三大探偵の一人と言うべきか──
……もっとも、私もその三人の中の一人ではあるが……。
だから何だというのだ。
称号だけはもらっていても、内容は追い詰められて、全データ削除され、このパソコンすら乗っ取られた。
悔しさ紛れに今爪をガリガリ削っている探偵が世界三大探偵?
仮にも“世界三大”を名乗るには、あまりにも情けなく、惨めで、客観的に見ればわりとギャグに近い状態である。
“三大”というのは数であって、順位ではない。それは分かっているが、今の私は、その三枠のうち、最も下に沈んでいることだけは確かだ。
いや、三人中四位くらいかもしれない。
誰だその四人目は。
分からない。
でも、そいつの方がまだ爪は健全だろう。
いつの時代も──『上には上がいる』。
そして、下にも下がいるのだ。問題は、自分がそのどちらにも当てはまらないという事実だけ。
Lは小さくため息を吐いた。
称号は名札だ。でも、名札に中身が伴っていない人間ほど──滑稽な存在もないだろう?
「…………」
……落ち込む。
けれど、それでも。
名がある限り、私は止められない。
──私が“L”である限り。
逃げるなんて選択肢はもう存在しないのだから。
Lは地べたに座り直して、深く息を吐いた。
深刻な状況である。
非常にまずい。
絶望的である。
それは重々承知のうえで──
エラルド=コイルの『名前』を、奪ってやろうか。
──などと、とんでもないことを思いつく探偵が、世界の犯罪に立ち向かっている現状に、まず世界の方が絶望すべきだ。
だが、仕方ないではないか。
私は、今この瞬間、“正気のうちに狂っている”。
焦燥と、怒りと、恥と、敗北感がぐるぐる渦巻くこの状況下において、希望の代用品として“野望”にすがることくらい、許されてもいいだろう。
そうすれば、全世界が、私の監視下だ。
衛星も、ネットワークも、裏社会も、すべてが『Lの目』の延長線上になる。
コイルの“目”を、奪う。
コイルの“顔”を、奪う。
コイルの“名”を、奪う。
やろう。やってやろう。
『超えよう』。
エラルド=コイル。
絶対に、負けない。
奴の名札を、ひっぺがしてやる。
タグを切って、値札を剥がして、私の胸に再接着して、まるで最初から、私のものだったかのように──
……負け惜しみだろうか。
そのとおりだ。
だが──“負け惜しみ”を言ってるうちは、まだ負けてない。
そして、私は勝つための負け惜しみしか、言わない。
──などと、負け犬の遠吠えを言っている場合ではないのだ。
冗談を言ってる余裕は、本来全くと言っていいほどないのだから。
データはすべて消されたのは変わらぬ事実。
このパソコンの中身はもう空っぽだ。
いや、空っぽどころか、もはや“罠”である可能性がある。
データがないなら、使う意味もない。
使う意味がないなら、持っている意味もない。
持っている意味がないどころか、持っていること自体が“敵に場所を知らせる発信機”と化す。
Lは、即座に判断した。
迷わない。
躊躇わない。
愛着も惜しまない。
ただ、立ち上がり──そこらに転がっていた、拳ほどの瓦礫を拾い上げ──無言で、パソコンの液晶めがけて、振り下ろした。
パキ。
ガラスが割れる音。
ゴギ。
基盤が砕ける音。
ピ、……。
電源が消える音。
Lは、何も言わない。
けれど、その動作すべてが、「これはもう、使いものにならない」という完全な意思表示だった。
パソコンだけなら、いい。
次に狙われるのは──
この身体。
この思考。
この存在。
Lという名前だ。
ここからが本番。
そして、ここからが地獄。
最強のバイオテロ事件が、今──幕を上げる。