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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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大奥様の話は、短かった。
「小夜子が亡くなる、四日前の朝でした」
屋敷から出す郵便は、家令室の盆の上に集めて、まとめて出す慣わしだという。その朝、盆の上に、伯爵家宛ての小夜子様の封書が一通あった。
「宛名の字が、ひどく乱れていました。熱のある手で書いたのでしょう。私は、なぜだか、それを抜き取りました」
大奥様は、膝の上で、指を組み直した。
「お子ができたこと。お腹の子のためにも、早く良くなりたいこと。それから、お義父様の御遺言が二通あるのです、どうしたらよいのでしょう、と」
「封の中には、もう一枚、入っておりました」
「……藤の透かしの、薄い便箋では」
大奥様が、私を見た。
「どうして、それを」
「小夜子様の日記の、十二月二十日の頁だけが、破り取られていたのです」
大奥様は、長いあいだ黙っていた。
「鉛筆で、何か書いてありました。私は、読みませんでした。読めば、燃やせなくなる気がした」
居室の火鉢で、手紙ごと燃やしたのだという。
「御遺言が二通などと、伯爵家に知れれば、家が割れます。久遠寺の名に、泥がつく。……私は、それだけを恐れたのです」
「なぜ、今になって、私に」
大奥様は、窓の外の暗がりに目をやった。
「タキが、倒れたからです」
低い声だった。
「あの冬、小夜子の枕元へ葡萄酒を運んでいたのは、タキでした。小夜子が死んでから、タキは、私の顔をまともに見なくなった。……私を疑っているのだと、わかっていました。私は、手紙を燃やした負い目があるから、何も言えなかった」
大奥様の唇が、わずかに歪んだ。
「三年、互いに口を閉ざしているうちに、タキは、あの階段の下で」
それ以上、大奥様は何も言わなかった。
言えないことが、まだあるのだと思った。けれど、私は訊かなかった。
*
二月が過ぎ、三月が過ぎた。
将臣叔父様は、記者倶楽部の一件のあと、親族の集まりに顔を出さなくなった。分家の御当主たちは、叔父様の名を聞くと、急に咳払いをするようになったという。
『帝都夜話』は、紙面の隅に、小さく詫びの記事を載せた。黒木の名は、それきり紙面から消えた。
『婦人の窓』の二月号には、白鷺の一女学生の投書が、一頁まるごと載った。
百合絵様は、その頁を切り抜いて、私の部屋の壁に画鋲で留めた。毎晩、寝る前に声に出して読み上げるので、私はすっかり諳んじてしまった。
屋敷の使用人たちは、少しずつ、私に目を合わせるようになった。ハナさんが、ある朝、黙って私の草履を揃えてくれていた。
本所の父は、春になって、床の上に座って新聞を読めるほどになった。
タキさんは、まだ眠っていた。
真柴さんは、何ひとつ変わらなかった。
四月十日の朝、渡り廊下で、真柴さんが私に深々と頭を下げた。
「奥様。御婚礼から、ちょうど一年でございますな。おめでとう存じます」
眼鏡の奥で、目尻に深い皺が寄った。
「一年、お持ちになりましたな」
穏やかな声だった。私は、礼を言って、その前を通り過ぎた。
背中に、しばらく視線が残っていた。
*
厨房に入ると、小豆を炊く甘い匂いがした。
冬馬様が、銅鍋の蓋を取って、中を覗きこんでいる。赤飯だった。
「一年だからな」
冬馬様は、こちらを見ずに言った。
炊き上がった赤飯は、底のほうが、少しだけ焦げていた。冬馬様は、焦げていないところを丁寧に選って、私の茶碗に盛った。自分の茶碗には、焦げたところを。
私は黙って、自分の茶碗の端に、焦げたところを少しもらった。冬馬様が、眉を寄せた。
「食べなくていいと言っている」
「私の旦那様の焦げですから」
冬馬様は、何か言いかけて、やめた。耳の先が、少し赤かった。
朝餉のあと、作業台の上を片づけて、私は紙を並べた。
小夜子様の日記の擦り出し。父上様の御名、いくつも、いくつも。
宇佐美先生に宛てた偽の手紙。明治の頃の古い紋の、欠けのある罫紙。
大奥様の言葉。御遺言が、二通。
「明治の書類に見せかけるための紙に、先代様の御名を、何度も何度も練習していた人がいる」
私は、自分の考えを、ひとつずつ口に出した。
「先代様の御遺言は、本当は一通。もう一通は、誰かが、明治の日付で拵えようとしている。小夜子様は、それを見てしまったのだと思います」
冬馬様は、作業台に両手をついて、紙を見下ろしていた。
「父の遺言は、弁護士に預けてある。家督は私に、と。それだけの短いものだ」
「その御遺言が、ひっくり返るような二通目があれば」
冬馬様の、左の眉に、指が伸びた。
「……得をするのは、誰だ」
二人とも、答えを持っていなかった。
叔父様の赤ら顔が浮かぶ。けれど、叔父様は言った。礼状は、屋敷の者から回ってきた、と。
擦り出しの一行を、私はもう一度指でなぞった。
……の文箱に。
その前の字は、破り取られた頁の向こうに消えている。
この家には、文箱がいくつもある。大奥様の居室の、書斎の、家令室の。千鶴さんが残した文箱も、どこかにあるはずだ。
「欠けのある罫紙は、二千枚刷りました」
私は言った。
「そのうちの一枚が、宇佐美先生への手紙に使われた。残りは、どこかにあります。そして、もしその中の一枚に、明治の日付の御遺言が書かれているなら」
冬馬様が、顔を上げた。
「欠けが、ある」
「はい。私の落とした罫の、欠けが」
*
夕方、冬馬様に呼ばれて、庭へ出た。
池のほとりの藤棚の下は、まだ花には早かった。棚から垂れた蔓の先に、硬い蕾の房が、小さく下がっている。
冬馬様は、和装だった。濃紺の紬に、角帯。懐から、白い封筒を一通出した。
表の墨の字が、今度は全部見えた。
離縁状。
「約束の一年だ」
冬馬様は、封筒を私に差し出した。
「借金は、もうない。父上の医者も、この先ずっと私が持つ。君は、自由だ」
私は、封筒を受け取った。中の紙を、開いた。
妻栞と離縁致し候。以後、何方へ縁付き候とも、差し構え無之候。
横画がわずかに右上がり、止めで筆をぐっと押さえ、払いは短い。鉛筆の溝など、どこにもない。この人の、本物の字だった。
日付は、大正十一年四月十日。
婚礼の、当日だった。
婚礼の夜、この人は、私に何も食べるなと言った。
その同じ日に、私を手放す書付に、名を書いていたのだ。
「決めるのは、君だ」
冬馬様が、低く言った。
「出ていくと言うなら、門まで送る。自動車も出す。……引き留めは、しない」
そう言いながら、紬の袖の下で、冬馬様の拳が固く握られているのが見えた。
私は、離縁状を元通りに畳んだ。
それから、帯の間に、すっと挟んだ。千鶴さんの手紙と、同じところに。
「先妻おふたりの死の謎を解くまで、離縁はできません」
冬馬様の目が、わずかに見開かれた。
「これは、お預かりします」
しばらく、冬馬様は何も言わなかった。
藤棚の蔓が、夕風に揺れて、乾いた音を立てた。
やがて、冬馬様は、袂から何かを取り出して、私の手を取った。
手のひらに、小さな冷たい重みが載せられた。
真鍮の鍵だった。
「寝室のあいだの扉の、鍵だ」
冬馬様の声が、少しだけ掠れた。
「向こうからも、開けられるように」
私は、鍵を握りしめた。
顔を上げると、すぐそこに、冬馬様の顔があった。
灰色がかった黒い目が、私だけを見ていた。前髪が一筋、額に落ちている。
「栞」
名前を呼ばれた。
大きな手が、私の頬に添えられた。手袋をしていない、温かい手だった。
目を閉じた。
唇に、そっと、触れるものがあった。
卵焼きの甘さを、なぜだか思い出した。
*
どれくらいそうしていたのか、わからない。
冬馬様は、私の額に自分の額をつけたまま、静かに息をついた。
それから、藤棚の蔓の向こうの、暮れていく空を見上げた。
「八月、千鶴の三回忌だ」
低い声だった。
「鎌倉の別荘を開ける。……あれ以来、一度も行っていない」
コメント
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おおっと…!第50話、めっちゃよかったです…!契約結婚から一年、離縁状を突きつける冬馬様の“引き留めはしない”って台詞、でも拳は握り締めてるってとこでグッときました。そして栞ちゃんが「お預かりします」って帯に挟むシーン、かっこよすぎる!!最後の鍵と「栞」って呼ぶ声、もう反則ですわ…。一年分の信頼と距離の縮まりがじわじわ効いてきて、鳥肌立ちました。続きが気になる…!