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結局、ボーニスはそれ以上追求することはなく、何か急ぎの用でもあるかのように颯爽と食堂を出て行った。この宿に泊まっているわけではないらしい。
食事を終えるとレモニカたちは宿泊する部屋にもどる。部屋には二つの寝台しかなく、ユカリとベルニージュが一つの寝台を共有した。レモニカは何度も何度も遠慮し、自身が床で寝ることさえも提案したが聞き入れられることはなかった。
レモニカは、何の目的もなくこの旅について来て、ただ二人に甘えているだけの自分を腹立たしく感じ始めていた。何かの役に立ちたい。ただ飯ぐらいではいたくない。二人に嫌われたくない。
寝台の中でユカリとベルニージュの寝息を聞きながら、レモニカは塗り固められた天井を見つめて考える。
これまでのユカリの旅はあらましを聞いただけでも驚異的なものだった。ミーチオン地方で十二枚、アルダニ地方で六枚の魔導書を集めたのだと聞いた時は一笑に付すのを堪えた。しかし彼女たちが携える三冊の本と一着の衣は確かにこの世のものとは思えない頑丈さであり、魔法の触媒として破格の力を持っていることは確かだった。それらの魔導書に込められており、すでに封印されたという魔法はそれ以上の力を振るったそうだ。
不思議で美しい本の形をして唯一、魔法少女の力だけはまだ封印されていない。
魔法少女に変身する第一の魔法。
万物と会話する第二の魔法。
生物に憑依する第三の魔法。
無生物を破壊する第四の魔法。
そのどれもが、極めて魔法に明るいベルニージュをして未だ人類の到達していない領域にある神秘なのだという。
そしてこのサンヴィア地方では魔導書の衣に禁忌文字を封印する旅をしている。魔導書に記された詩はレモニカも覚えてしまった。
文字形作る二十と三人。燃え立つ鎖に縛られる。
日は乙女の衣を祝福し、月の妬みが黄金を飾る。
砂は玉座の上にあり、影は獣の腹を覆う。
墓石を削り、轍に惑う。
血の滴りは泉に落ちて、妖精の輪に囲まれる。
嬰児の母は剣を帯びて、緑髪を結いて、矢に示す。
歪んだ偶像は瞳を開き、髑髏と真珠が釣り合いて、賢しき者は果実を食む。
雷雲はかしずき、嘴と共に断崖を刻む。
星座を共にすくいあげ、雨降る泥で、開かずの箱にしたためる。
蛇は眠る、穴の底で、二十と三人の目覚めを待つ。
ベルニージュの考えるところでは、この詩自体には何の意味も込められていないのだという。これはあくまで元型文字――とユカリたちが呼ぶ特殊な形で作った禁忌文字――の作成手順を示しているに過ぎない。
レモニカは外すことのできない鉄仮面の奥で何度も禁忌文字の詩を諳んじる。何か、ユカリのために気づけることはないだろうか、と。
その時、ふと旅路の途中の何気ない会話を思い出す。それは”血の滴りは泉に落ちて”についてのユカリとベルニージュの会話だった。
文字通り血で泉に書くのだろう、とユカリが冗談を言った。そして、どうやって液体で液体に書くのか、とベルニージュが笑ったのだ。その時はそれで話が終わった。今は分からなくてもいずれ分かるだろうという自信がユカリとベルニージュにはあるのだ、とその時のレモニカは思った。
そして今、レモニカは閃きを得た。居ても立ってもいられず、すぐに具体的な行動に出ることに決めた。
部屋の反対側の寝台で窮屈そうに眠る二人に目を向けるが、起こさないことにする。一人で事を成し遂げ、ただ飯ぐらいではなく、きちんと二人の役に立てる旅の仲間にならなくてはならない。
レモニカは夕暮れの影よりも静かにそっと寝台を忍び出て、神秘に満ちた夜の星々ではなく塗り込められた天井に見出した天啓を携え、安らぎすら安らぐ部屋を出て行く。
夜は薄く暗い衣を幾重にも重ねて一段とその厚さを増すが、冬の星々は帳に負けず、競うように喚くように士気を高めるように歌う。そのさんざめきを聞き取れる神秘の生き物だけが、深い夜の澱みの中で応えるように合唱した。
レモニカにはどちらの歌も聞こえなかったが、その夜は今までと違う、新たな夜のように感じた。まだ何も成し遂げていないはずの自身が、既に刷新されたかのように感じられた。
町のあちこちの温かな窓辺では冬の眷属が恨めしそうに家の中を覗き込もうとしているが、どの家にも古く優しいまじないがあって、毛皮を持たない人間と冬の手先との間に立ちはだかっている。
このような夜に出歩く者はいない、天啓を携えるレモニカを除いては。
それでもレモニカはひとり警戒を怠らずに凍り付いた街の通りの端の薄暗がりを、鏡のように星々を映す湖の方へと進む。家の中で暖かくしている者の、身も心も凍てつかせるような恐怖の存在へとレモニカは変身を繰り返す。毛深い大男や生意気そうな子供、涎を垂らした熊や薄汚れた鼠。そして長い前足に鋭い爪を持つ目の血走った犬のような姿の怪物。レモニカは知る由もないが、それはこの土地の伝承にある怪物で、雪玉を野犬に投げつけるような子供が特に恐れている存在だった。
レモニカの存在に、夜の街を徘徊する不定形の存在に気づいた者は、それが人間であれ、夜闇に紛れる不思議な存在であれ、いま見たものから目をそらして神々の慈悲を願った。
とうとう湖にたどりついた時もやはり、レモニカの姿は犬の怪物のままだった。それはレモニカの企みにも都合がよく、一安心する。
対岸そのものは見えず、星々の浮き沈みする水平線が伸びているが、丁度真北の辺りでぼんやりとした明かりが見える。対岸にあるのはとても大きな街なのだということをベルニージュに聞いていた。その明かりなのだろう。
犬の怪物の姿のレモニカは凍り付いた湖に降り立ち、その前足の短剣のような爪を見る。右前足の爪を左前足に沿わせ、力を込める。瞼が閉じようとするのを必死でこらえながら、涎の垂れる歯を食いしばり、痛みで呻くことにすら耐え、血を流させた。血は足を伝い、爪の先で滴り落ちる。
”血の滴りは泉に落ちて”という言葉を喉の奥で繰り返す。泉が凍り付いていても構わないはずだ。
凍った湖面に犬のレモニカの血で文字を書きつける。爪で湖面を引っ掻き、そうして出来た溝に血を流し込む。
血が行き渡った瞬間、禁忌文字が、その元型がレモニカの功績を讃えるように眩く光る。やはり元型文字を完成させるたびに、この光は強くなっている。今回はさらに眩しく、夜空の星々も掻き消えるような不遜なほどに強い光だ。
それどころか、と思える異常にレモニカは気づく。いま湖面に書きつけた文字以外にも強い光が見えたのだった。それはユカリたちの眠る宿のある方角だ。確かに文字を完成させる時、ベルニージュの羽織る魔導書の衣に記された文字も同様に光を放つ。しかし、いま魔導書の衣とレモニカの間には木立があり、多くの家屋が遮っており、ここまで届くはずがないのだ。もちろん、それは普通の光の話であって、魔導書にまつわる不思議な光に関してはその限りではないのかもしれない。
とにかく、やり遂げたのだ、とレモニカは喜びに震える。天啓を授かって、さらには一人でその方法を実行してみせたのだ。達成感ともいうべき心の震えにレモニカは心地よさを感じた。まだ自分の呪いについてよく知らなかった幼い頃は、この心の震えがとても好きだったことをレモニカは思い出した。あの頃の自分は誰かのために何かができたのだ。そして自分のために何かを勝ち取れたのだ。
光でユカリたちが目覚めているかもしれない。早く宿に戻ろうと街の方を振り返ると、冬と星とレモニカ以外何もない夜を何者かが出歩いていることに気づく。その人影はまっすぐレモニカの方へと向かってきていた。
その何者かに呼応するようにレモニカの体が大きく変化する。犬の怪物とは比べ物にもならない、民家の屋根まで背の届く巨体へと変じる。
それは星々の煌めく夏の夜の闇にも劣らない、暗くかつ艶やかな姿だ。胴を覆う濃く分厚い体毛は滑らかな天鵞絨で、冬の星々の輝きを受けて爛然と照り映えている。腕と指、体の間には熱い血の通う皮膜があり、指先の鉤爪は名高き最初の銅の刀剣にも劣らない鋭さを誇っている。それは知る人の少ないながらも、夜と闇に精通する者の間では恐れられ、また口にするもはばかれる蝙蝠の王の姿だった。
天鵞絨の蝙蝠に変身したレモニカはあまりにも人間とはかけ離れた感覚に混乱する。視力の弱い生物には何度か変身したことがあるが、ほとんど盲に近い生物は初めてだった。蝙蝠の王は普通の蝙蝠よりもさらに光なき世界に棲んでいるらしい。しかし、それでいて辺りが確かに視えていた。音というものにこれほどの情報量があろうとは想像したこともなかった。場合によっては光よりもよく視える。
「その姿は……。話には聞いてはいましたが、まさか彼の姿を取るとは」
それはボーニスの囁きだったが、レモニカには耳元で話されるのと同じくらい確かに聞こえた。一方でボーニスの佇まいは港や食堂で会った時と同じ人間とは思えない。その親し気に響く声色に反して、まるで警戒する猿のような前傾姿勢で、今にも四足歩行で駆け出しそうだ。その表情も険しく、唸り声の漏れだしそうな様子だった。