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「第七条。妻は、夫に恋をしないこと」
西園弁護士は番号のあとに一拍置いて、そこだけゆっくり読んだ。
ことはは契約書から目を上げた。向かいに座る男は窓のほうを見ている。氷川遼。氷川百貨店の専務。三十二歳。顔立ちは整っていて、笑わない。会うのは今日が二度目で、一度目は先週、父の病室の前の廊下だった。黒いコートの男が立っていて、「柊屋の娘か」と聞き、名刺を一枚渡して行った。
銀行には三度頭を下げた。親戚には二度。どこからも返事は同じだった。だから、二十八年暮らした柳町を出て、ここに座っている。
「……どうして、わたしなんですか」
「条件に合った」
「それと、この条文の理由を、聞いてもいいですか」
「必要だからだ」
遼はことはを見ずに答えた。
ことはは条文をもう一度読んだ。妻は、夫に恋をしないこと。読み返しても同じ字が並んでいる。
「氷川さんのほうには、ないんですか。同じ条文」
「俺には必要ない条文だ」
そうだろう、とことはは思った。下町の和菓子屋の娘に、この人が恋をするはずがない。だから書く必要がない。それだけのことだ。
「続けます。第八条――」
「待ってください」
ことはは一枚戻って、第六条に指を置いた。借金のことが書いてある条だった。
柊屋の債務三千二百万円を、署名の日に氷川遼が清算する。一年の期間内に妻の側から婚姻を解消したときは、清算した額を貸付に切り替える。夫の側から解消したときは、清算のまま、別に夫が妻に金を払う。
父が工房で倒れて三か月。心臓の手術のあと回復が遅くて退院が延び、店の売上が落ち、建て替えのときの借入と合わせて、銀行は期限を切ってきた。期限は今月の末だった。
「ここに、一つ足していただきたいことがあります」
西園がペンを止めた。遼が初めてことはのほうを見た。
「店の従業員の雇用を、守っていただきたいんです。職人の源さんと、パートの子。借金を返していただくのは、うちの店の話ですから。店が氷川さんのものになるわけじゃないと思っていますけど、万一のときに、二人が店を追われないように」
言い終えてから、自分の声が途中から店の話になると急にはっきりすることに気づいた。
西園は遼を見た。
「入れろ」
遼は窓のほうを向いたまま言った。
西園が条文を書き足し、ことはの前に判を押す場所を示した。
ことはは鞄から印鑑を出した。指先に、小豆の色が残っている。今日は店の休みだったが、明日の餡を炊いてから来た。石鹸で三度洗っても、小豆の色は爪の際に残る。
判を押す手を、遼が見ていた。
「手を洗ってこなかったのか」
「洗いました。落ちないんです、小豆の色は」
遼は何も言わず、ことはの手から目を離した。離すのが遅かった、とことはは思った。
◇
坂の上の家は、古い洋館だった。
門から玄関まで石畳が続いて、玄関の脇に大きな楓の木がある。車を降りたことはの前に、六十くらいの女の人が立っていた。
「奥様。芹沢と申します。お待ちしておりました」
「奥様は、やめてください。ことはでいいです」
「では、ことはさん」
芹沢はすぐに言い直した。言い直しの速さに、ことはは少し助けられた。
二階の東の端の部屋がことはの部屋だった。遼の部屋は西の端。鞄を置いて降りると、食堂に遼が立っていた。座っていなかった。
「人前では妻として振る舞え」
「はい」
「朝は店に出ていい。六時半には開けろ」
ことはは顔を上げた。
「……六時半。うちの開店の時間、ご存じなんですか」
「調べた。それ以外は干渉しない。お前も、俺に干渉するな」
返事をする前に、遼は食堂を出て行った。廊下の奥で扉が閉まる。書斎だと芹沢が教えてくれた。
食卓にはことはの分の夕食だけがあった。
「坊ちゃまは、召し上がらないんですか」
「坊ちゃまは朝は召し上がりません。夜も、ほとんど」
芹沢はそう言って、ことはの茶碗にご飯をよそった。坊ちゃま、という呼び方が、この家で遼が育ったことを教えていた。ことはは誰にも聞かずに、それを覚えた。
◇
朝五時。
玄関を出ると、まだ空は黒かった。石畳の先に車が止まっていて、その横に遼が立っていた。黒いコートに、手袋。
「乗れ」
「……ご出勤には、早すぎませんか」
「俺の都合だ」
助手席の扉を遼が開けた。ことはは乗った。
車は坂を下りて、暗い道を走った。遼は何も話さない。ことはも話さなかった。干渉するな、と言われている。車の中は暖房が入っているのに、指先だけが冷えていて、ことはは膝の上で両手をこすった。
「すみません。手が」
「関係ない」
遼は前を見たまま言って、暖房の目盛りを一つ上げた。
ことはは、こすっていた手を止めた。目盛りの位置を見て、遼の横顔を見た。横顔は何も言っていなかった。手袋をした手がハンドルを握っている。暑かったのかもしれない。どちらでもいい。そう思うことにした。
信号で止まったとき、遼が口を開いた。
「店は、何時まで出る」
「二時くらいまで。それからは母が」
「帰りは車を回す」
「電車で帰れます」
「回す」
ことはは返事をしなかった。干渉するな、と言ったのはこの人だ。
三十分で、商店街の一つ手前の角に着いた。
「店の前には止めない」
「はい」
「六時半だ」
扉を閉めると、車はすぐに行ってしまった。帰りの車のことは、聞き返さなかった。ことはは暗い通りを歩いた。柊屋の藍色のシャッターが見えてくる。シャッターの脇の戸を開けると、工房にはもう灯りがついていて、源さんが豆を見ていた。
「おはよう」
「おはようございます。源さん、早い」
「正市さんがいねえからな」
源さんはそれだけ言って、鍋に戻った。六十六歳。ことはの祖父の弟子だった人で、店が苦しくなってから、自分で出る日を減らしていた。今日は出ると言っていない日だった。
ことはは手を洗って、昨日炊いた餡を出した。源さんが箸の先を餡につけて、少しだけ舐めて、黙った。黙るのは、悪くないときの癖だった。
餅を搬き、豆を混ぜ、餡を包む。工房と店先の間には小さなガラス窓があって、そこから店の台の端が見える。六時半は、餡を包む手が離せない時間だ。六時二十分、母が二階から降りてきた。
「お父さんには、まだ言ってないからね。契約だなんて、あの体で聞いたら起き上がるから」
「分かってる」
六時半、母がシャッターを上げた。音が通りに響く。
いつもの朝だった。昨日まで二階で寝ていて、今日は坂の上の家から来た、ということを除けば。
昼前、母が店先から戻ってきて、台に残った豆大福を数え始めた。母は毎日数える。数えてから、ことはに言う。
「今日は、一つ残ったわ」
「そう」
「珍しいね、残るの。――ああ」
母は手を止めた。
「朝一さん、今日は来なかったわ」
「朝一さん?」
「毎朝一つだけ買っていく常連さん。あんたは工房で手が離せないから、顔は見てないでしょう。六時半に来て、豆大福を一つだけ買って、帰る人。もう何年も、毎朝」
ことはは、へらを持ったまま母を見た。
「今日だけ、来なかったの。――あんたがお嫁に行った、次の日にねえ」
母は不思議そうに首をかしげて、また数を数え直しに戻った。
台の上に、豆大福が一つ、売れ残っていた。
コメント
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うわあ……静かに、でもとても深く響くお話ですね。 「第七条。妻は、夫に恋をしないこと」――この一文がもう、全てを物語っているようで切なくなりました。 ことはさんの「小豆の色が落ちない」という細かい描写にとても心を掴まれました。彼女の生活や覚悟が滲んでいて、グッときます。そして朝の車で無言で暖房の目盛りを上げる遼さんの横顔……あれだけで彼の気持ちが見えた気がしました。 最後の豆大福、絶対に遼さんだと思いましたよ。また読み返したくなる、そんなエピソードでした🌷
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