コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
けれど、結葉が「えっ」とその声に目を向けたときには、扉が閉まり切ってエレベーターは上昇を開始してしまって。
結葉は心の中で〝本当にごめんなさいっ。後でちゃんと伺います!〟と言い訳をすると、手にした紙袋をギュッと握りしめた。
たくさん詰めすぎたからだろうか。
ふと見ると、持ち手の付け根のところが、破れて来ていて、結葉は落っことしたら大変、と紙袋を両手で抱き抱え直す。
そのせいで前が見えにくくなってしまったけれど、エレベーターの扉が開いたら、部屋までは一直線の通路だ。
約三年間住んでいた場所ではあるし、きっと視覚の不便さを〝慣れ〟がカバーしてくれるよね?と、結葉は不安な気持ちを払拭するみたいに一生懸命自分に言い聞かせた。
***
夕飯をまともに食べず、ちゃんとしたベッドで眠りもしない生活のせいで、無理が祟ってしまったのだろうか。
朝までほぼ一睡も出来なかった結果、偉央はマトモに立って居られないほどの眩暈に襲われて、なかなか起き上がることが出来なかった。
待合室に掛けてある時計を見ると、午前四時半。
もう数時間もすれば、スタッフたちがやって来て、『みしょう動物病院』のいつも通りの一日がスタートしてしまう。
(ダメだ……)
院長としては在るまじき情けないことだけれど、このままではとてもじゃないが仕事をすることが出来そうにない、と思ってしまった偉央だ。
(とりあえず、一旦マンションに戻るしかないか)
結葉の居ないあの部屋に帰るのは正直気が乗らないけれど、ここでずっと寝て居られない以上、自宅に戻るしかない。
(ベッドで寝れば、始業時刻までに回復出来るかもしれない)
そう思った偉央は、自分が中にいたため、作動させて居なかった警備会社のセキュリティシステムをオンにすると、ふらつく足を鼓舞しながら『みしょう動物病院』を出る。
物伝いに歩けるところはそうしながら進んで、道路を渡るときだけは何も寄りかかれるところがなかったので足がもつれそうになるのを必死で堪えながら何とか歩いて――。
幸い早朝で車が全く走って居なかったから横断出来たけれど、昼間だったら立ち往生……もしくは渡る前に歩道にうずくまって居たかも知れない。
よろけるようにマンションエントランスのドアを開けて中に入ると、物凄い酩酊感に襲われて思わずその場に膝を折ってしまった。
「大丈夫ですか?」
偉央の異変に気付いた男性コンシェルジュが駆け寄ってきて、偉央を立たせてくれる。
夜間は男性コンシェルジュに代わっているのは知って居たけれど、それが有難く思えてしまった偉央だ。
やはり、結葉の逃亡劇を知るあの女性二人に会うのは、弱り切った今だけは避けたいと思ってしまったから。
「……申し訳ない」
人の手を取ってしまったことに謝ると、「お気になさらず。それよりも一人で歩けますか?」と問われて。
本当ならば、一人で歩くことなんて到底出来そうにないのだけれど。
こんな時でさえも、プライドが邪魔をして人に頼ることを潔しと思えない偉央は、なけなしの気力を振り絞って「大丈夫です」と答えてしまって。
グッと両足に力を入れてふらつく身体を鼓舞すると、エレベーターホールを目指した。
玄関扉を開けて家に入ったと同時、靴を脱ごうとしたらバランスを崩してシューズクロークに置かれていた靴を、いくつか足元に払い落としてしまった。
いつもならすぐに拾って土間には何もない状態にするのだけれど、いまはとてもじゃないがそんな気力はない。
ふと視線を落とした足元。
自分の靴に混ざって、結葉の小さなパンプスなどが散乱しているのを見て、偉央はギュッと胸が締め付けられるような思いがした。
結葉を監禁していた最終日、服は全て取り上げたけれど、靴だけは敢えて残したのを思い出す。
もしも結葉が決死の覚悟で逃げ出したとして、履き物がなかったら足を怪我してしまうと思ったから。
自分が足枷をつけてしまったことで痛々しいくらいに足首に傷を負ってしまった結葉に、あれ以上手傷を負わせるのは忍びないと思ってしまったのだ。
(結葉の足の怪我は治っただろうか)
ズルズルと身体を壁にこするようにして寝室を目指しながら、偉央はそんなことを思った。
***
抱えた紙袋のせいで前がよく見えないけれど、やはり自分はここの住人だったんだなぁと思いながら、結葉は淀みのない足取りでかつて偉央と住んでいた最奥の一室を目指した。
オートロックで、扉が閉まれば勝手に鍵が掛かってしまうホテル仕様のようなその玄関扉に、最初のうちは慣れなくて戸惑ったのを思い出す。
生体認証キーでなかったら、鍵を部屋に置き去りで締め出しに、なんてこともしょっちゅうあったかも知れない。
そのシステムのせいで、偉央と微妙な空気のまま家に帰宅したときなんかは、偉央に押し込まれるように部屋に入って、彼の背後で扉が閉まって施錠音が鳴り響いた途端〝閉じ込められた〟という息苦しさを感じさせられたのを思い出す。
惣菜というのはそれなりに水分を含んでいるからか結構重く感じられて、部屋前で一旦紙袋を持ち上げ直すと、結葉は今度は左手人差し指をドア付近のセンサーに付ける。
ピッと耳馴染みのある音に続いてガチャっという解錠音がして、結葉は恐る恐る扉を開けた。
結葉の動きを感知したのか、玄関ホールのセンサーライトが反応して明かりが灯る。
それにドキッとさせられてしまった結葉だ。
(大丈夫、いつも通り……。いつも通り)
別に偉央が中にいて、電気をつけたわけではない。
そう自分に言い聞かせてそっと内側に入ると、ふと昔の記憶を思い出して無意識、密室になるのを避けるみたいに玄関扉の下部に、手近にあった靴べらを挟んでオートロックが掛からないようにした。
いつもなら理路整然とした状態のはずの玄関の土間に、結葉の靴と偉央の靴が数足ずつ散らばっていて、偉央の精神状態の乱れを感じて切なくなる。
結葉が一緒に暮らしていた頃は、玄関先には一足の靴も出ていなくて、履くものをすぐ横のシューズクロークから取り出しては履いていた。
なのに――。
帰りにここに散らばっている靴と、シューズクロークに仕舞われたままの靴を数足持ち帰ったらいいかも。
今、結葉は逃げるときに履いていたスニーカー一足で生活している。
想は靴も買おうと言ってくれたけれど、差し当たって困るわけではないから、と買わずにいたのだ。