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第8話:昏い雨の破片と、魔術師が目覚めるまで(ネスが記憶喪失になる前の過去話です)
それは、すべてが完璧に回っていたはずの、ある雨の夜のことだった。
ドイツのリーグ戦を終え、俺とネスは一台の車で帰路についていた。激しい雨がフロントガラスを叩きつけ、ワイパーがせわしなく視界を拭う。車内には、ネスが淹れて水筒に詰めてきてくれた温かいアールグレイの香りが、微かに漂っていた。
「今日のカイザーの決勝弾、本当に美しかったです!まるで世界のすべてが、あなたの足元に跪いたようでした」
「ふん、当然だろ。お前がまともなパスをよこせば、俺のシュートは百発百中だ」
「はい、僕の王様。これからもずっと、あなたの後ろは僕が守ります」
助手席で、ネスはいつものようにハシバミ色の瞳を輝かせ、俺のすべてを全肯定する笑みを浮かべていた。俺たちの愛は、誰にも引き裂けない完璧な完全結晶だった。ーーその調和が、一瞬の不協和音によって、無惨に砕け散る。
*
「ーーっ、カイザー、危ない……!!」
ネスの鋭い悲鳴と同時に、視界の端から、スリップして制御を失った対向車の大型トラックが、凄まじい光と轟音を伴って俺たちの車へと突っ込んできた。
視界がスローモーションになる。トラックの鋭い鉄塊が、助手席側のドアを紙切れのように引き裂こうと迫り来るのが見えた。
「ネス……っ!!」
身体が勝手に動いていた。俺はハンドルを左に切り、自らの身体を助手席側へと投げ出すようにして、ネスの細い身体を全力で抱きすくめた。
世界一のストライカーとして、自分の身体がどれほど貴重な財産か、なんて思考は一瞬すらよぎらなかった。ただ、この男を失うことだけは、神に誓って許せなかった。
強烈な衝撃が、俺たちの世界を破壊する。
金属がひしゃげる耳障りな音、ガラスの破片が降り注ぐ中、俺の腕の中で、ネスの身体がガクリと崩れ落ちた。
「ネス……、おい、ネス……!目を開けろ……っ!」
俺の額からも血が流れ落ち、視界が赤く染まっていく。
どれだけ名前を呼んでも、あいつの身体は冷たく静まり返ったまま、ぴくりとも動かなかった。遠くから近づいてくるサイレンの音を聞きながら、俺は意識を失った。
*
どれほどの時間が経っただろうか。白い天井、ツンとした消毒液の匂い。病院のベッドの上で先に目を覚ましたのは、俺の方だった。
身体のあちこちに打撲や切り傷はあったものの、奇跡的に選手生命に関わるような大怪我はなかった。俺を庇うようにして衝撃を直接受けた、ネスの身代わりのおかげだった。
「先生、ネスは……! ネスはどこだ!?」
「落ち着いてください、カイザー選手。アレクシス・ネスさんは別の病室で一命を取り留めました。ですが……」
医師の曇った表情を見た瞬間、心臓が凍りつくような予感がした。
「頭部に強い衝撃を受けており、現在は昏睡状態です。脳の神経そのものに致命的な損傷は見られませんが……いつ目を覚ますか、そして目覚めた後にどのような影響が出るかは、現在のところ分かりません」
病室を飛び出し、集中治療室のガラス越しに見つめたネスの姿は、あまりにも小さく、脆かった。人工呼吸器に繋がれ、いくつもの管を身体に通されたあいつは、まるで魂をどこかに置き忘れてきたかのように眠り続けていた。
*
「おい、ネス。いつまで寝てんだよ。飯がマズくて敵わねぇだろ」
それから毎日、俺は練習の合間を縫ってネスの病室に通い詰めた。あいつの細い手を握り、何度も、何度も、二人で過ごした日々の話を語りかけた。ピッチの上での輝かしい栄光も、この部屋で二人きりで愛し合った甘やかな夜のことも。
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Mami
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けれど、一週間が経ち、二週間が経っても、ネスのハシバミ色の瞳が開くことはなかった。
ピッチに立っても、後ろを走るあいつの気配がない。
俺の傲慢を笑って受け入れる、あの声が聞こえない。
世界中が俺を称賛しても、あいつが隣にいなければ、俺の世界はただの灰色の砂漠だった。
(頼むから、目覚めてくれ、ネス……。お前が俺を拒むなら、いくらでも殴らせてやる。俺のせいでこんな目に遭わせたんだ、どんな罰でも受ける……っ)
夜の静かな病室で、俺はネスの手の甲に額を押し付け、何度も、何度も静かに涙を流した。
俺を本物の『王』にしてくれた、世界でたった一人の魔術師。あいつを失うかもしれないという底なしの恐怖に、俺の心は毎夜、ズタズタに引き裂かれていた。
*
そして、事故からちょうど三週間が経った、激しい雨の日の午後。
俺がいつものようにあいつの手を握りしめていた時、その指先が、微かにピクリと動いた。
「……っ、ネス?」
長い睫毛が震え、ゆっくりと、本当に ゆっくりと、そのハシバミ色の瞳が開かれた。
三週間、ずっと待ち望んでいた、俺の命よりも大切な光。
「あ……、カイザー……?」
俺の名前を呼ぶ声に、俺の胸は歓喜で震えた。けれど、その瞳の奥を見つめた瞬間、俺の身体は硬直した。
あいつの瞳にあったはずの、俺を世界で一番狂信的に愛していた『熱』が、どこにも見当たらなかったからだ。怯えたように俺の手を見つめ、他人を見るような距離感で、ネスは静かに口を開いた。
「……あ、あの……あなたは、だれですか?僕、どうしてここに……」
それが、俺たちの『世界の終わり』でありーーそして、もう一度新しく愛を始めるための、全ての始まりの瞬間だった。