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「男の方、と」
千歳は帳場に手をついた。
「どのような」
番頭は帳面を閉じたまま、首を振った。
「お客様のことは、申し上げられません」
「流れたのですか」
「いえ。期限の前に、きちんと受け出していかれました。お代もいただいて」
受け出された。流れてはいない。誰かの手に、ある。
千歳は帳場から手を離さなかった。十年、人の顔色を見て引き下がってきた手だ。今は、引かなかった。母の帯留めだ。赤い珊瑚。あれは、商家の趣味だと藤乃が箪笥の奥にしまって、売る金に困って質に入れた。それを、今朝、誰かが受け出した。
「お名前は結構です」
千歳は言った。
「白髪で、背筋の伸びた方では、ございませんでしたか。懐から、時計を出して」
番頭の顔が、動いた。
動いて、それから、観念したように、小さく頑いた。
文が、千歳の袖を引いた。
「奥様。柘植様だ」
千歳は番頭に頭を下げた。深く下げて、暖簾を出た。
市電の中で、文はずっと喉っていた。
「柘植様が、朝、お出かけになったの、あたし見ました。旦那様の言いつけで、って。どこへ行くのかは言わなかったけど。奥様、旦那様って、ああいう人なんですよ。言わないで、やる。やって、言わない」
千歳は窓の外を見ていた。電柱が流れていく。
三年前から、調べさせていた。柘植はそう言った。とよのことも知っている。帯留めのことも、知っていたのだろう。知っていて、期限の朝に、柘植を行かせた。千歳が質札を手にする前に。
あの人は、何を、どこまで知っているのだろう。
「奥様、聞いてます?」
「……ええ」
「返事、ないですよ」
千歳は文を見た。文は笑っていなかった。心配している顔だった。
「文ちゃん」
「はい」
「帯留めは、どこにあると思う」
文は少し考えて、言った。
「奥様の部屋」
それで、二人とも黙った。
部屋に戻ったのは、夕方だった。
障子を開けて、千歳は立ち止まった。
鏡台の上に、赤いものがあった。
小さい。親指の先ほどの、赤い珊瑚。金具がついている。箱はない。紙もない。鏡台の上に、ただ、置いてある。母の、帯留めだ。
千歳は近づいた。膝をついて、鏡台に手を伸ばした。
触れる前に、止まった。
触れたら、消える気がした。十年、触れられなかったものだ。箪笥の奥にあると知っていて、藤乃の箪笥だから、開けられなかった。夢に見た赤さと、同じ赤さが、そこにある。
触れた。
冷たかった。珊瑚は、冷たい。母が枕元に置いたときも、冷たかった。熱のある額に、母はそれを当てた。赤いものは、魔除けになる、と。
千歳は帯留めを、両手で包んだ。
包んで、額に当てた。熱は、ない。ないのに、額が、熱くなった。
どれくらい、そうしていたか分からない。文が障子の外で「奥様」と言って、言わなかったことにして、去っていく音がした。
書斎の障子の前で、千歳は息を整えた。
帯留めは、左手に握っている。
障子を開けた。玲司は机に向かっていた。
「旦那様」
「なんだ」
「帯留めを……」
千歳は左手を開いた。赤い珊瑚が、電灯の下にある。
玲司は、それを見た。一瞬だけ見て、机の上の紙に目を戻した。
「知らん」
「……柘植様が、今朝」
「柘植が何かしたなら、柘植に聞け」
玲司はペンを取った。取って、書かなかった。右手でペンを持ったまま、左手で、袖口を直した。釦が留まっている袖口を、留め直すように、二度。
千歳は、その手を見ていた。
「ありがとうございます」
玲司は答えなかった。ペンが、動き始めた。
千歳は障子を閉める。閉めてから、廊下で、帯留めをもう一度握った。知らん、とあの人は言う。知らん、と言って、袖口を二度直す。
文の言ったとおりだ。言わないで、やる。やって、言わない。
千歳は、母の帯留めを、帯に挟んだ。櫛の隣に。母のものが、二つ、そこにある。
裏の三畳で、とよは布団を畳んでいた。
「お嬢様。こんなところへ」
「とよ。見て」
千歳は帯から帯留めを抜いて、とよの手に載せた。
とよは、しばらく、それを見ていた。耳が遠いので、千歳が何も言わないでいると、とよも何も言わない。赤い珊瑚が、とよの荒れた掌の上にある。
「……咲子様の」
とよの声が、掠れた。
「ああ、咲子様の。ああ」
とよは帯留めを両手で包んで、額に当てた。千歳がしたのと、同じことをした。それから、千歳の手に戻した。
「お嬢様がお持ちなさいまし。咲子様は、そのために」
「そのために」
「お嬢様の、お守りに。熱のときに」
とよは前掛けで目を拭いた。新しい前掛けだ。お初がくれたものらしい。
「あたしは、もう、何も残せないと思っておりました。奥様が、一つずつ売って。琴も、鏡台も。最後に、これだけは、と」
「とよが、持ってきてくれた」
「あたしは、札を持ってきただけで」
とよは笑った。
「受け出したのは、こちらの旦那様でございますよ。お嬢様」
千歳は答えなかった。知らん、と言った声が、耳にあった。
廊下の角で、声がした。
「分家の旦那様が」
権田の声だった。低くて、短い。
「柘植様。今夜、料亭で、お見かけしました。お相手が」
千歳は足を止めた。聞くつもりは、なかった。
「有明の、奥方で」
柘植の、時計を出す音がした。
「お嬢様も、ご一緒で。三人で、奥の座敷に。一時間ほど」
「……旦那様に、お伝えする」
千歳は廊下の角から動けなかった。帯の間の帯留めが、冷たかった。
草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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コメント
1件
帯留め、戻ってきたんですね……。玲司さんの「知らん」と、袖口を直す手の動きだけで全部語っちゃってるのがもう、たまらなかったです。「言わないで、やる。やって、言わない」って文ちゃんの言葉、まさにそれ。千歳さんが帯留めを額に当てるシーンも、とよさんが同じ仕草をするのも、熱が伝わってくるようでした。最後の権田さんの声、不穏すぎて続きが気になりすぎます…!