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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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恭介は、六日後に来た。
前の日の夜、柘植が書斎で玲司に何か伝えているのを、千歳は廊下で聞いた。聞こえたのは「明日」と「分家」だけだった。それで十分だった。
今度は玲司がいる。会社を早く引き上げて、広間で待っていた。恭介が来ると知っていたのだ。権田の報告から、六日。
千歳は、玲司の斜め後ろに立つ。
椅子は勧められたが、座らなかった。座らないのは、前と同じだ。違うのは、膝だった。膝が、下りない。絨毯を探さない。自分でも、気づくのが遅れた。
文が広間の戸口で、盆を持ったまま、千歳の膝を見ていた。見て、何も言わずに、茶を置いて下がった。
「玲司」
恭介は扇子を取り出した。膝を打つ。
「結納金の件は聞いた。有明に五千円。返せるわけがない。あの家には、もう何もない」
「叔父上が心配されることではない」
「心配しているのは御堂の名だ」
扇子が、もう一度、膝を打った。
「いいか、玲司。有明の屋敷は、抵当に入っている。知っているな。先代が貸した金の、形だ。抵当を持っているのは、御堂だ」
千歳は、聞いた。
抵当。有明の屋敷。あの、塗りのはげた洋館と、和館の奥の、土間と、三畳の女中部屋。それが、御堂のものになる。
「あの女を離縁しろ。それで、有明の屋敷を差し押さえる。五千円など、それで済む話だ。偽りの花嫁も、借財も、一度に片づく。御堂の名に傷は残らん」
玲司は、動かなかった。
「叔父上」
「なんだ」
「それは、叔父上の口を出すことではない」
恭介の扇子が止まった。それから、恭介は千歳を見た。
「夫人は」
声が、千歳に向いた。
「膝を、つかんのか」
千歳は、自分の膝を見た。立っている。この前は、ついた。言われもしないのに、勝手に下りた膝が、今日は下りない。
「……はい」
それだけ答えた。なぜか、と聞かれたら、答えられなかった。答えられないまま、立っていた。
恭介は、しばらく千歳を見ていた。それから、扇子を閉じた。
「ならば、離れの娘を、世間に出す」
玲司の顔が、動いた。
恭介は、それを見ていた。見て、扇子を開き直した。
「お前が隠しても、人の口は塞げん。有明の娘御が見たのだろう。若い女だと。私は、それが誰か、知っている。お前の父が死んだ夜から、知っている」
玲司は答えなかった。
千歳は、恭介の言葉を、一つずつ拾った。お前の父が死んだ夜。三年前の、冬。食堂のあたりから出た火。
千歳は、それを見た。初めて見た。この人の顔が、動くところを。目の奥で、何かが、一度だけ、揺れた。
娘。
「火傷の娘を隠して、狂女と噂される当主に、財閥は任せられん。親族もそう言うだろう。私はただ、御堂の名を」
「帰られよ」
玲司が言った。声は低かった。
恭介は立ち上がった。扇子を懐に入れ、戸口で振り返った。
「有明の母御は、賢い人だ。お前より、話が分かる」
出ていった。自動車の大きな音が、遠ざかった。
広間に、二人きりになった。
玲司は、暖炉の前に立っていた。火は入っていない。五月だ。それでも、玲司はそこに立って、火のない暖炉を見ていた。
「旦那様」
千歳は言った。言わなければならないことが、あった。
「有明の屋敷を、取らないで、いただけませんか」
玲司が振り返った。
「梢の、帰る家が。……なくなります」
言ってから、自分でも、おかしなことを言っていると思った。梢は千歳の袖をつかまれて、痕のある手で触らないで、と言った。母様に言いつける、と言った。届も出ていないのに妻ですって、と笑った。
それでも、あの家は、梢が帰る家だ。千歳が、十年、台所から見ていた家だ。
「君は」
玲司の声が、低くなった。
「妹に何をされたか、忘れたのか」
「忘れておりません」
「忘れていないのに」
「忘れておりません。けれど」
千歳は、玲司の目を見た。十年、人の顔色を見てきた目だ。今日は、顔色を見ていなかった。目を、見ていた。
「けれど、あの家が、なくなったら。梢は、どこへ」
玲司は、何も言わなかった。
言わないまま、千歳を見ている。切らない。千歳の言い分を、途中で切らない。十年、誰も、千歳の言い分を最後まで聞かなかった。この人は、聞いた。聞いて、何も言わない。
「……そうか」
それだけだった。
返事は、なかった。取らない、とも、取る、とも。千歳は、それ以上は言わなかった。
玲司は、暖炉から離れた。戸口まで歩いて、足を止めた。
「叔父は」
背を向けたまま、言った。
「離れの娘のことを、有明の母御に、話している」
千歳の口の中で、言葉が、一つ転がった。
娘。
若い女だ、と梢は言った。大事な人だ、と玲司は言った。叔父は、娘、と言った。火傷の、娘。
玲司は、出ていった。
千歳は、火のない暖炉の前に、一人で立っていた。
廊下で、柘植の時計の音がした。柘植は戸口に立って、千歳を見ていた。
「奥様」
「……はい」
「抵当のことは、先代の旦那様の代からでございます。旦那様は、一度も、お取り立てになったことがございません」
千歳は頑いた。頑いてから、聞いた。
「柘植様。離れの、娘、というのは」
柘植は時計を見た。長かった。
「私の口からは」
それだけ言って、頭を下げた。下げたまま、言った。
「旦那様が、お話しになる日が、ございます。奥様には」
顔を上げて、廊下へ戻っていった。
千歳は、帯の間の帯留めに、右手で触れた。冷たかった。火傷の、娘。火傷の、手。並べなかったものが、今日、少しだけ、並びかけていた。
コメント
1件
「膝が下りない」っていう場面、すごく刺さりました。前は無意識に下りてたのに、今度は下りない——千歳の中で少しずつ何かが変わってるのが伝わってきて。最後の「並べかけていた」も、静かだけど確かな希望みたいに感じられて、胸がぎゅっとなりました。玲司の「そうか」も短いけど重くて…。毎回、細かい仕草や間合いで心情を描くのが本当に上手いです。続き、気になります。