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神崎蒼の執務机の真横という、前代未聞の「社長室机並べワーク」が始まってから数日が経過した。
最初は日本の経済界を動かす最高意思決定の場で息が詰まるかと思っていた私だったが、人間の適応能力とは恐ろしいものである。
視界の端には常に、端正な横顔で莫大な決裁書類を次々と片付けていく若き社長の姿がある。無駄のない万年筆の走らせ方、時折タブレットの数値を見つめる琥珀色の瞳の鋭さ、そしてふとした瞬間に私の方へ向けられる柔らかな眼差し。天井まで届く大きなガラス窓からは丸の内の高層ビル群と澄んだ秋空が一望でき、防音性の高い室内には、重厚なマホガニーの家具と観葉植物が落ち着いた調和を生み出していた。
さらに二時間に一度は、時計の針を合わせたかのように「水分補給の時間だ」「脳の糖分が落ち始める頃合いだ」と声が掛かり、神崎自ら淹れた温かい黒豆茶や、カカオ八十パーセントの一口ダークチョコレートが私のデスクの上にそっと置かれるのだ。
執務環境としては、控えめに言って最高だった。
神崎の意図を誰よりも早く汲み取り、先回りして資料を整える「氷の秘書」としての私の実務パフォーマンスは、物理的な距離がゼロになったことでさらに飛躍的に向上していた。以前は内線電話や社内チャットを挟んでいた微細なニュアンスのすり合わせが、今では視線一つ、吐息一つで完結してしまう。
(社長の作ってくださる三段重のお弁当と、この徹底された室温・湿度管理のおかげで、最近は夕方の偏頭痛も胃もたれもまったくないのよね……)
私は左手首で静かに稼働する特注ロック式の黒いスマートウォッチにそっと触れ、ブラウスの襟元の奥で体温に馴染んでいる一粒ダイヤモンドのネックレスの重みを確かめて微笑んだ。
彼に二十四時間バイタルを監視され、胃袋の隅々まで掌握されているという事実は、もはや恐れや窮屈さではなく、私にとって何物にも代えがたい「絶対的な安心感」へと変わっていたのだ。
その日の午後二時過ぎ。
神崎は別フロアの第一会議室で行われる財務担当役員との短い打ち合わせのため、十五分ほど席を外していた。
私は一人社長室に残り、先ほど神崎が承認したばかりの欧州物流提携案件の決裁データを社内サーバーへ登録していた。静まり返った最上階の執務室には、私が叩くキーボードの軽快な打鍵音と、空調の微かな風音だけが響いている。
――ガチャリ。
ノックもなしに、不意に社長室の重厚なマホガニーの扉が開かれた。
神崎が資料でも取りに戻ってきたのかと思い、私が「お早いお戻りですね、社長」と椅子から立ち上がって顔を上げた瞬間。
ふわりと、むせ返るような濃厚なダマスクローズの香水が室内に流れ込んできた。神崎が纏っている清潔で涼やかなシトラスと白檀の香りとは対極にある、自己主張の激しい人工的な甘い匂いだ。
「……あなたが、噂の『泥棒猫』ね」
そこに立っていたのは、一目で全身の総額が数百万を超えるとわかるハイブランドの真紅のツーピースに身を包んだ、派手で豪奢な美貌の女性だった。
大きく巻かれた艶やかな長い髪に、勝気そうに吊り上がった大きな瞳。
私は彼女の顔に経済誌の社交コラムや先日のクルーズパーティーで見覚えがあった。老舗財閥・西園寺グループの令嬢――西園寺麗華だ。
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「西園寺様……? いかがなさいましたか。本日はアポイントメントは入っていないはずですが、秘書課の受付はお通しになりましたでしょうか」
私は咄嗟に背筋を伸ばし、礼儀正しく、しかし一切の隙を見せない「氷の秘書」の仮面を被って応対した。
だが麗華は私の言葉を鼻で笑い飛ばし、高いピンヒールの音を絨毯に響かせてズカズカと社長室の中へと踏み込んできた。そして、神崎の執務机の真横にぴったりと並べて設えられた私のデスクを見るなり、美しい顔を歪めて露骨に眉をひそめた。
「受付なんて西園寺の名前を出せば黙って通すわよ。それより何これ。神崎社長の神聖な執務室に、どうしてただの秘書の机なんかが並んでいるの? ……ああ、なるほど。四六時中、蒼様に媚びを売るためというわけね。浅ましいわ」
「媚びなど売っておりません。こちらは迅速な意思決定と業務効率化のための、神崎社長ご自身のご判断です」
「ふん、口答えだけは達者ね。豪華客船のパーティーでの蒼様の発言、私はこれっぽっちも本気にしていないわよ。蒼様があなたみたいな家柄も後ろ盾もない一介の事務員を『生涯のパートナー』だなんて、何かの気まぐれか、親族への当てつけの火遊びに決まっているもの」
麗華は私のデスクの前まで歩み寄ると、値踏みするような鋭い視線を上から下まで突き刺してきた。
彼女の纏う強烈な香水の匂いに、私の鼻腔がツンと痛む。
「いいこと? 神崎ホールディングスを率いる蒼様の隣に立つ女性には、相応の血筋と社交界での教養、そして彼を家庭で献身的に支える『完璧な妻』としての器が必要なの。あなたみたいに、朝から晩まで地味なスーツでパソコンを叩くしか能のない女に務まるわけがないわ!」
勝ち誇ったような麗華の甲高い声が、高い天井の社長室に反響する。
「私、蒼様のために、パリの三ツ星レストランのシェフに師事してフレンチも和食も一通りマスターしたのよ。彼の健康を最高の料理で支え、激務で疲れた彼を極上のおもてなしで癒やす。それができるのは、幼い頃から一流の教育を受けてきた私だけよ。……身の程を知って、自分から辞表を出して消えなさい」
圧倒的な自信と、家柄を盾にしたマウンティングの嵐。
もし数日前の私であれば、この言葉に深く傷つき、「おっしゃる通りです、私なんかが社長の隣にいる資格はありません」と再び自己犠牲の殻に閉じこもっていただろう。
しかし――あのクルーズの夜を越えた今の私は違った。
(……三ツ星レストランのシェフから教わった料理で、社長の健康を支える……?)
私の脳裏に浮かんだのは、高熱を出した夜に神崎が黒いエプロン姿でふーふーと冷ましながら一口ずつ食べさせてくれた参鶏湯風の生姜雑炊と、今朝も暗いうちから起きて一番出汁を引いてくれた漆塗りの三段重だった。
あれは、私の弱り切った胃腸の消化能力と、一日の業務パフォーマンスをミリ単位で計算し尽くした、神崎蒼という人間にしか作れない「究極の過保護食」だ。
それに、彼を料理で支える? 彼を家庭で癒やす?
――まったくの逆である。うちの社長は、自分が相手の栄養と睡眠をすべて管理し、自分の手から一口ずつ料理を食べさせ、膝の上で甘やかすことに至上の悦びを見出す、筋金入りの「過保護な健康管理魔王」なのだ。
(西園寺様……あなたのようにプライドの高い完璧なお嬢様では、社長の『一口ずつの餌付け』や『外せないスマートウォッチでの二十四時間バイタル監視』、ましてや『約束を破った時のお膝の上でのお仕置き』には、三日と耐えられないはずです……!)
そう思うと、不思議と恐怖や劣等感はみじんも湧いてこなかった。
むしろ、神崎の本当の重さと異常なまでの過保護さを何も知らないまま息巻いているこの令嬢が、少しだけ場違いで不憫に思えてきたほどだ。
「……西園寺様。お言葉ですが、私の進退を決めるのは西園寺様ではなく、神崎社長です。社長のご不在中にこれ以上執務室に留まられるのでしたら、内規に従い警備部を呼ばせていただきます」
「なっ……! ただの秘書のくせに、私を誰だと思って指図する気!? その澄ました氷の仮面、今すぐ剥がしてあげるわ!」
私が一歩も引かずに冷静に返したことで逆上したのか、麗華がヒステリックな声を上げ、私の肩を突き飛ばそうと長い爪の並んだ右手を振り上げた。
その瞬間。
――『ブブブッ!』
私の左手首で、スマートウォッチが心拍数の急上昇を検知して鋭く振動した。
そして、それと完全に同じタイミングで。
「――俺の秘書に、その汚い手で触れるな」
室内の温度が、一瞬にして氷点下まで急降下したかのような錯覚が走った。
開かれた扉の前に、打ち合わせから戻ってきた神崎蒼が立っていた。
その琥珀色の瞳は北極のクレバスのように冷たく、底知れぬ怒りの焔を宿している。彼の手元のスマートフォンには、私の心拍数とストレス値の急上昇を知らせる赤いアラートが表示されていた。
「あ、蒼様……!」
麗華は振り上げた手を慌てて下ろし、パッと表情を華やがせて甘えた声で神崎へ駆け寄ろうとした。
「蒼様、お久しぶりですわ! 私、今日はお父様と一緒にご挨拶に伺って、それで……この秘書の方にあまりに無礼な態度を取られてしまって……」
「黙れ、西園寺」
ピシャリと、氷の刃のように冷徹な一言が麗華の言い訳を切り裂いた。
神崎は麗華を一瞥もせず、長い脚で大股に私の元へ歩み寄ると、私の肩を力強く抱き寄せて自分の広い胸の陰へと守るように隠した。ふわりと包まれるシトラスと白檀の香りに、張り詰めていた私の背中からすっと力が抜ける。
「しゃ、社長……っ。申し訳ありません、お止めするのが遅れて……」
「君は謝るな。心拍数が百十八まで跳ね上がっている。……俺がたった十数分席を外した隙に、誰の許可を得て俺の執務室に踏み込んだ、西園寺」
「だ、だって蒼様……! 私はあなたを心配して……! こんな素性も知れない秘書にたぶらかされているんじゃないかと思って! 私なら、三ツ星シェフ直伝の料理で毎晩あなたのお身体を支えられますのに!」
必死に訴える麗華に対し、神崎は心底呆れ果てたような冷ややかな溜息を一つ吐いた。
「……お前は、根本的な事実を何一つ理解していないな」
「え……?」
「第一に、俺は他人に料理を作ってもらうことなど一ミリも望んでいない。俺自身の栄養管理は俺が完璧に行う。素人の生兵法など邪魔なだけだ」
神崎はそう言い放つと、抱き寄せていた私の黒髪を、見せつけるように大きな手で優しく撫でた。
「第二に、白石琴音の業務処理能力と危機管理スキルは、うちのグループ数万人の社員の中で間違いなくトップだ。彼女が隣で補佐するからこそ、俺は通常の三倍の速度で経営判断を下せる。お前に、五カ国語の法務文書を即座に精査し、百億円規模のM&Aスキームを一人で組み上げる実務能力があるのか?」
「そ、それは……っ」
「そして何より――俺が人生の伴侶に求めているのは、俺がミリ単位で計算して作った食事を美味しそうに食べ、俺の特注したスマートウォッチで二十四時間バイタルを管理され、俺の庇護下で健やかに息をしてくれる、白石琴音ただ一人だ」
神崎の低く響く声には、一切の迷いも妥協もなかった。
「彼女は仕事では誰よりも優秀で、プライベートでは俺が世話を焼かなければ食事もろくに摂れないほど危なっかしい。だからこそ、俺が一生をかけて胃袋から愛を注ぎ、管理し尽くす価値がある。……お前のような、中身のないプライドと強烈な香水で他人の自律神経を乱す人間に、俺の執務室の空気を吸う資格はない」
神崎は絶対零度の視線で麗華を射抜いた。
「今すぐ退室しろ。これ以上、俺の大切なパートナーにストレスを与えるなら、西園寺グループとの取引口座を本日付で全面凍結する。……警備部、西園寺様を正面玄関の外までご案内しろ」
内線ボタン一つで駆けつけた屈強な警備員二人に両脇から促され、顔面蒼白になった麗華は「ひっ……!」と短い悲鳴を上げて、逃げるように社長室から退散していった。
重厚な扉が閉まり、執務室に再び静けさが戻る。
神崎はすぐに窓際の大型空気清浄機を最大出力に切り替え、私の両頬を大きな手でそっと包み込んだ。彼の掌から伝わる温もりが、緊張で冷えていた私の指先までじんわりと溶かしていく。私一人ではきっと、ただ耐え忍ぶことしかできなかったはずだ。けれど今の私には、私の仕事の誇りも不器用な弱さもすべて理解した上で、絶対的な盾となって守ってくれる人がいる。
「……怪我はないか、琴音。手を出されそうになっていただろう」
「は、はい……大丈夫です。社長がすぐに来てくださったので……でも、あんなにハッキリ『俺が世話を焼かなければ食事も摂れない』なんて宣言されたら、私の氷の秘書としての威厳が……」
「威厳など、俺の前では不要だ。君が毅然と対応していたのは防犯音声とバイタルの推移ですべて把握している。よく耐えたな」
神崎は先ほどまでの冷酷な魔王の顔を溶かし、とろけるような甘い瞳で私の額に深いキスを落とした。
そして私の左手首のスマートウォッチの画面に目を落とすと、小さく眉を寄せた。
「だが、心拍数がまだ九十五から下がっていない。あの強烈な香水の匂いと騒音で、君の繊細な自律神経にノイズが入ったな。……よし、決めたぞ」
「え? 何をですか?」
「明日から二泊三日で、北陸へ特別出張を入れる」
「きた、北陸ですか!? 明日からなんて急すぎます! どこの工場の視察ですか!?」
「視察じゃない。山間にある源泉掛け流しの高級温泉旅館『月白』を、二泊三日で全館貸し切りにした。各離れに露天風呂と、俺が腕を振るえる専用キッチンがついている」
「そ、それって、ただの過保護な慰安旅行じゃないですか……!」
「『社長秘書・白石琴音の自律神経および胃腸の完全メンテナンス業務』という、我が社で最優先の重要案件だ。異論は認めない」
神崎は私の腰をぐいと引き寄せ、耳元で甘く囁いた。
「温泉で身体の芯まで温めて、日本海の旬の食材を使った特製薬膳懐石を俺の手からたっぷり食べさせてやる。……覚悟しておけよ、琴音。明日から三日間、誰にも邪魔されない場所で、君をとことん甘やかしてやるからな」
スマートウォッチが、跳ね上がった私の心音を感知して『ブブッ』と心地よく震えた。
高飛車な令嬢の襲来すらも、この過保護すぎる魔王様の独占欲に火をつける燃料にしかならなかったらしい。私は真っ赤になった顔を彼の胸に埋めながら、観念して小さく頷くのだった。
コメント
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うわあ、この回めっちゃ痛快だった! 西園寺麗華のマウンティングに対して、神崎社長が「仕事の能力」と「過保護の愛」の両軸で完全論破するの、読んでてスカッとしたわ。 特に「俺が世話を焼かなければ食事も摂れない」って断言するところ、支配的でありつつ愛情100%で最高だった。 最後の北陸強制連行も、社長の過保護が加速してて次の話が待ちきれない🔥