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北陸の静かな山あいに佇む、知る人ぞ知る隠れ家温泉旅館『月白(げっぱく)』。
数寄屋造りの離れが一棟ずつ広い竹林と渓流に囲まれて独立し、すべての客室に源泉掛け流しの露天風呂と日本庭園が備えられたその名旅館を、神崎蒼は「他人の気配が少しでも君のストレスになるのは不愉快だ」という規格外な理由で、本当に二泊三日・全館貸し切りにしてしまっていた。
東京駅から北陸新幹線のグランクラスに揺られ、専用ハイヤーに乗り換えて山道を登ること三十分。黒塗りのハイヤーが打ち水の施された石畳の門をくぐると、凛とした山の空気と、どこからか漂う白檀のお香の香りが私達を迎えてくれた。
「よ、ようこそおいでやす、神崎様、白石様……」
玄関で出迎えてくれた女将さんの丁寧な挨拶に恐縮しながら、私は神崎に腰を抱かれるようにエスコートされて、敷地最奥の特別貴賓室『天風の間』へと通された。
雪見障子を開け放つと、鮮やかな緑の苔庭の向こうに白い湯けむりを上げる岩造りの露天風呂が見え、その先には紅葉し始めた渓谷の絶景が広がっている。さらに室内のダイニングスペースには、樹齢数百年の檜の一枚板カウンターと、プロの料理人が使える本格的なアイランドキッチンまで完備されていた。
「移動で身体が冷えただろう。まずは露天風呂で芯まで温まってこい。俺はその間に、夕食の薬膳出汁を引いておく」
「はい……って、ええっ!? 本当に社長がご自分でお料理を作られるんですか? こちらはミシュランにも載る名旅館ですし、素晴らしい板前さんがいらっしゃるのに……」
「他人の作った料理で、君の繊細な胃腸と乱れた自律神経が完璧に整うとでも思っているのか?」
神崎は上質なカシミヤのジャケットを脱ぎ、黒いドレスシャツの袖を肘までまくり上げながら、当然と言わんばかりの顔で言い放った。
引き締まった前腕の筋肉と、慣れた手つきで持参の包丁ケースを開く姿は、大企業のトップというより孤高の三ツ星シェフそのものだ。
「旅館の料理長には、今朝金沢の港で水揚げされたばかりの最高級の活ズワイガニとのどぐろ、それに地元の契約農家の加賀野菜と漢方食材だけを特別室に届けさせた。塩分濃度と火入れの秒数は、君の昨日の睡眠データと今日の血圧に合わせて俺がミリ単位で調整する。……ほら、文句を言わずに風呂に入ってこい」
「……い、いえ、文句なんてありません。ありがたく温まってきます……」
どこへ行っても一ミリもぶれない絶対君主の過保護ぶりに、私は苦笑しながらも胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
昨日、西園寺麗華から浴びせられた心ない言葉のトゲは、彼がこうして行動のすべてで「俺には君しかいない」と示してくれるおかげで、跡形もなく溶け去っていた。
◆
夕暮れの涼しい山風に吹かれながら、私は岩造りの露天風呂の湯船にゆっくりと身を沈めた。
無色透明でとろりとした化粧水のような源泉が白い肌にまとわりつき、肩まで浸かると「はぁぁ……」と深い感嘆の吐息が漏れる。
木々の葉擦れの音と、竹の湯口から注がれるお湯の軽やかな音だけが響く、贅沢すぎる静寂。東京での分刻みのスケジュールや緊張が、お湯の中に少しずつ溶け出していくようだった。
(お義母様や西園寺様が知ったら、また目を剥いて怒るだろうな……ただの秘書のために旅館を全館貸し切りにして、社長自らキッチンに立ってお出汁を引いているなんて)
湯船の中で左手首を持ち上げると、完全防水仕様の黒いスマートウォッチが、湯気に濡れた肌にぴたりと吸い付くように巻かれている。
神崎の生体認証でしか外せない特注ロックの鎖。けれど今の私には、それが離れのキッチンにいる彼と私を繋ぐ、世界で一番頼もしい赤い糸のように思えた。
「ん……いいお湯。少しポカポカしてきたかも……」
十分ほど浸かり、額と鎖骨にうっすらと汗が滲んできた頃だった。
脱衣所との境にある備え付けの防水通話スピーカーから、低く艶のある声が響いた。
『――琴音。心拍数が百二、体表温度が三十七度八分まで上昇している。のぼせる三十秒前だ、今すぐ湯から上がれ』
「ひゃあっ!?」
私はビクッと肩を跳ねさせ、思わず湯船の中で胸元を両腕で隠して周囲を見回した。もちろん、高い竹垣と木々に囲まれた露天風呂に人影はない。
「しゃ、社長!? な、なんでわかるんですか!? もしかしてどこかにカメラとか……っ!?」
『人聞きが悪いことを言うな。俺の手元の端末に、君のスマートウォッチからリアルタイムで入浴中のバイタルデータが飛んできているだけだ。湯温は四十一度二分、君の低血圧気味の体質なら十二分が上限だ。……脱衣所の冷蔵庫に、常温に戻した加賀棒茶と経口補水ゼリーを用意してある。三十秒以内に上がって二百ミリリットル飲まなければ、俺が直接バスタオルを持って引き上げに行くぞ』
「あ、上がります! 今すぐ上がって飲みますから、絶対に来ないでくださいっ!!」
温泉に浸かっている瞬間でさえ、一秒たりとも彼の健康管理網からは逃れられない。
私は茹で上がったように顔を真っ赤にしながら慌てて湯船から飛び出し、言われた通りに加賀棒茶を飲み干して、用意されていた薄紅色の色浴衣に袖を通した。
◆
髪を乾かしてダイニングへ戻ると、檜のカウンターには、息を呑むほど美しく滋味深い料理がずらりと並んでいた。
氷の上に咲く花のような活ズワイガニの刺身、ふっくらと黄金色に焼き上げられたのどぐろの藻塩焼き、金時草と加賀蓮根の薬膳炊き合わせ、クコの実と松の実が浮かぶスッポンと地鶏の白湯スープ、そして湯気を立てる土鍋炊きの新米。部屋中に広がる極上の一番出汁の香りに、お腹がきゅうっと可愛らしく鳴った。九谷焼の色鮮やかな器の一つ一つまでが温められており、料理の温度を下げないための徹底した配慮が伺える。
「ちょうど炊き上がったところだ。座れ、琴音」
神崎もすでに内湯で汗を流してきたのか、濃紺の浴衣に黒の羽織を纏った姿に着替えていた。
普段の隙のないスリーピーススーツとは違う、少し緩んだ襟元から覗く引き締まった鎖骨と、湯上がりの色気を帯びた黒髪に、私の心臓がトクンと大きく跳ねる。
「すごいです、社長……! お出汁の香りが本当に優しくて、見ているだけでお腹が空いてきました……」
「昨日のストレスで胃粘膜が荒れている可能性を考慮し、消化酵素の多い源助大根のおろしと加賀丸芋のとろろを添えてある。……だが、自分で箸を持つなよ。俺の隣に座れ」
「えっ……? ここ、誰にも見られない離れですし、自分でお箸くらい持てますよ……!」
「誰にも見られないからこそ、最初から最後まで俺の手で食べさせる。……ほら、口を開けろ。まずは温かい薬膳スープで胃を温めるぞ」
隣にぴたりと腰を下ろした神崎が、塗りの匙で黄金色のスープをすくい、ふーふーと息を吹きかけてから私の唇へと差し出した。
観念して口を開けると、生姜とナツメ、そして地鶏の深い旨味がじんわりと舌の上に広がり、食道から胃の奥まで温かい熱が染み渡っていく。
「んんっ……美味しい……! 身体の芯がぽかぽかします……」
「いい反応だ。次はのどぐろだぞ。小骨はすべて抜いてあるから安心して噛め」
神崎の長い指が操る箸でほぐされたのどぐろの白身は、上品な脂が口の中でとろけ、続くズワイガニの刺身は濃厚な甘みで頬が落ちそうになる。
私が一口食べて幸せそうに目を細めるたびに、神崎は「いい子だ」「残さず食べて偉いぞ」と満足そうに微笑み、唇の端についた米粒を親指の腹でそっと拭い取った。
胃袋の隅々まで彼の計算し尽くされた愛情で満たされていく感覚に、私は抗いようのない甘い陶酔を覚えていた。
◆
極上の薬膳フルコースを完食し、食後の片付けを終えた後。
ライトアップされた苔庭を望む広縁のローソファでくつろいでいると、神崎が二つのグラスを持ってやってきた。一つは彼自身のロックウイスキー、もう一つは地元の実生柚子とカモミールを合わせた温かいノンアルコール・ハーブカクテルだ。
「ここへ来い、琴音」
神崎はソファの中央に深く腰を下ろすと、自分の引き締まった太腿の上をポンポンと叩いた。
私が顔を赤らめながらおずおずと彼の膝の上へ横座りになると、強靭な腕がすかさず私の腰を抱きすくめ、浴衣越しの背中を広い胸板へと密着させた。
「……昨日の西園寺の言葉、まだ気にしていたか?」
私の耳元に唇を寄せ、神崎が静かな低音で問いかけてきた。
私は手元の温かいグラスを見つめながら、小さく息を吐いて正直に答えた。
「……最初は、少しだけ。でも、社長があの場で私の実務能力も、私生活のポンコツなところも全部ひっくるめて肯定してくださったから……もう怖くありません。ただ、こんなに私ばかり甘やかされて、社長に何もお返しできていないのが申し訳なくて」
「馬鹿だな、君は」
神崎の腕に、ぎゅっと強い力が込められた。
「俺が君を管理し、俺の手料理で君の健康を作っていること自体が、俺にとって最大の報酬なんだ。もし君が誰の手も借りずに完璧に自炊して生きられる女だったら、俺が入り込む隙がないだろう? 君が俺のご飯を食べて『美味しい』と笑い、この時計で元気な鼓動を刻んでくれるからこそ、俺は毎日戦えるんだ」
神崎の長い指が、私の左手首のスマートウォッチを愛おしそうになぞり、そのまま私の足首からふくらはぎへと滑った。
サイドテーブルに用意されていた柚子とベルガモットのアロマオイルを温かい手のひらに馴染ませると、彼は湯上がりの私の脚から肩甲骨までを、絶妙な力加減でゆっくりと揉みほぐし始めた。
「あ、んっ……社長、気持ちいいです……身体が溶けちゃいそう……」
「足のむくみが取れて、末梢の血流が良くなってきたな。心拍数も七十二で完全に安定した。……今夜は俺の腕の中で、朝まで一度も目を覚まさずに眠らせてやる」
湯けむりの香りと、神崎の力強い体温、そして甘いアロマの香りに包まれながら、私の意識はとろとろと心地よい微睡みへと溶けていった。
コメント
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第8話、もうもうもう、社長の過保護が最高峰に達してましたね……!バイタル監視されながら強制入浴タイムアウトとか、食べさせてもらいながらマッサージまでされるなんて、もう琴音さんが羨ましすぎます。昨日の傷を今日の献身で全部塗り替えてしまう“計算し尽くされた愛”、胸に沁みました🫂 温泉の描写もとろけるようで、私まで一緒に旅館にいる気分になりました。