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いつまでも覚えている。
君と過ごしたあの夏を。
「ねぇ、せんせ。夏休み一緒に行きたいところがあるんだけど。」
放課後の教室、俺の補習授業になんて一つも興味を示さない子から、突然こんなことを言われた。
毎回毎回赤点を取って帰ってくるこの子は、授業なんて1ミリも聞いていないのに、なぜか補習には必ず来る。
来るのに、ただずっと窓の外を見ているか、教科書に落書きをしている。
星の数ほど注意をしてきたけれど、何の甲斐も無いので、もう諦めた。
この子が高校3年生になる頃には、ただ会話をするだけの時間を過ごすようになっていた。
「行きたいところって、どこ?」
純粋な疑問を投げかければ、くりっとした瞳ですっとぼけて、
「んー、内緒。オッケーかいいよで答えて。」
と返された。
「拒否権ないじゃんそれ。」
「にゃは、バレた?」
「…まぁ、考えとく。」
「ほんと?!」
「補修全部真面目に受けて、来週のこの時間に小テストで30点以上取れたらね」
「うっそ!!!せんせ酷い!!行く気ないじゃん!!!」
「どうかな、それは君次第。行きたいなら、頑張れ?」
「くぅっ…!くそぉ、、絶対30点取ってやるー!!」
「そこは30点より高い点数目指そうよ…」
「せんせ、俺がバカなの知ってるでしょ?!無理無理!!」
「あははっ、頑張って。じゃあ再開するね?先週教えたこの公式覚えてる?」
「んむむ?」
「もう…。もう一回教えるからよく聞いててね。この部分をxにして…」
この子と、夕暮れ時に時間を共にするのはこれで何回目だろうか。
勉強に熱心な子は少ないこの学校で、律儀に補習に来るのは、いつもこの子だけ。
特段、遅れを取り戻したさそうな気配も全くないのに。
不思議な子だけど、なんでもない言葉を交わすたった1時間の、この子との関わり合いは、いつの間にか俺にとっても無くしたくないないものになっていた。
もうすぐ夏休みが始まる。
この子はもう卒業する。
補修は1学期まで。
受験が始まれば、この子と俺の時間も終わる。
突然のこのお誘いをどうしようか。
この学期が終われば、この子と会うこともなくなる。
寂しいなんて、思ってはいけない。
どんな生徒にだって、分け隔てなく接するのが教師としての責務ではないのか。
でも、この子は違う。
特別扱いしたくて、ただ、もう少し時間を共有したくて、と心が叫ぶ。
そんな思いと教師としての正しさが、ずっと喧嘩をしていた。
この子が、あえて狙えなさそうで狙える「30点以上」なんて条件を出した俺の狡さを、どうか許してほしかった。
自分を狡いと感じている時点で、俺の中でこの子は充分特別な子だったんだ。
「ほら、佐久間くん!!寝ない!!」
「んはッ!? 阿部ちゃんせんせ、どこまで喋ってた!?もう一回!もう一回!!」
「ぅおおおおおおおー!!!うみーーー!!」
「そんなにはしゃぐと転ぶよー?」
「せんせ、せんせ!!早く!!」
無理だと言いながらも、佐久間くんはしっかり31点を取った。
キラキラと目を輝かせて、海に向かってまっすぐに独特な走り方で駆けていく。
最初、行き先を告げられた時は驚いた。まさか、海外に行くとは思っていなかった。
最大で可能な俺の滞在時間は一週間だと伝えると、早々に日程を抑え、初日の集合場所と時間だけ伝え、下校していった。
当日、言われた目的地に着くと、小型ジェット機の横で佐久間くんが大きく手を振っていた。
全く飲み込めないこの状況に、佐久間くんは何を言っているんだと言わんばかりに「これに乗っていくんだよ?」とただそれだけ言った。
俺がおかしいのか、この子がおかしいのか。
「誰にも邪魔されたくないの。阿部ちゃんせんせとの時間。」
ぽそっと聞こえたその言葉に、あの時、俺はなんて返せばよかったんだろう。
一日中海で遊んで、はしゃいでいた佐久間くんの肌は、日に灼けて少し赤くなっていた。
佐久間くんと過ごしたあの一週間は、ただああっという間に過ぎて、夢から覚めた後のようだった。
心に、言い表しようのない切なさだけが、今でももずっと残っている。
佐久間くんとの夏が終わり、それぞれお互いの時間へ戻る。
その答えを出したことに後悔はない。
俺の人生の中で、君と出会えたたった一度の瞬間は輝いていたから。
あの時、もしテストの点数を50点にしていたら、きっと分かち合えなかった時間がそこにはあった。
海にはしゃぐ佐久間くんを眺めながら物悲しく思う俺の気持ちを、大きな引き波が攫っていった。
あの瞬間、俺の瞳から溢れるようにこぼれ落ちた涙は、なんだったのだろうか。
実る秋を超え、耐える冬が過ぎ、芽吹く春が来て、また夏が来ようとしている。
この季節が、胸の奥にしまい込んできたあの時の記憶を蘇らせる。
もう振り返ってもいいだろうか、きっとこの先も俺と佐久間くんが重なる時間は来ないのだから。
佐久間くんのお家はお金持ちだそうで、海外に別荘を持っていて、どうやら今回の旅は決行されたらしい。
その時期には、地元のお祭りが開催されていたこともあり、街は活気に満ちていた。
お邪魔している別荘のバルコニーで、夜の風を2人で感じている。
知人もいない、言語も違う、遠く離れた異国の地で、俺と君だけの世界になったみたいだった。
不意に大きな音が鳴る 。
大きな花火が、俺と佐久間くんを照らした。
「せんせ、きれいだね」
その横顔が綺麗だった。
刹那的な衝動だった。
思考なんてどこにも持ち合わせていなかった。俺は、佐久間くんに口付けて視界を奪った。
「こんなことしたらダメだよ?せんせーなんだから。」
軽口で、佐久間くんは俺の腕に優しく触れて、距離を取った。
なぜ自分がそんなことをしたのかなんて、わからなかった。
理由なんて見つからなくてよかった。
だって、どんなに想いがあろうと、 今吹いている優しい海風が途切れる前に、俺は言わなければいけないんだから。
さよなら、って。
また夏が来る。
でも佐久間くんと交わる夏は、もう来ない。
きっとこの先、俺と佐久間くんがどこか遠い未来で、再びこの世に生を落としたとしても。
あの時、優しく伝えてくれた拒絶がなければ、きっと今も、俺は未練がましく君のことを想っていたんだろう。
わからないことがたくさんあるのは苦しい。
そんなのはたった一つでいいんだ。
どうして、あの時佐久間くんは泣いていたんだろう。
俺に「だめ」だと言いながら、寂しそうに涙を流す君の気持ちだけが、今でもずっと解けないままなんだ。
届けられるのなら届けたかった。
届けてはいけなかったんだとしても、届くのなら、届けたかった。
そんな時間も、いつか意味があったんだと思える日が来るのかな。
君を想っていたことに嘘偽りはない。
あの時「さよなら」と言えなければ、君の幸せを願えなかったかもしれない。
波の音に溶け出した恋が、大きな音を立てて響いた花火のような愛が、季節を超えて繰り返し繰り返し俺の胸の中に木霊する。
さよなら、佐久間くん。
さよなら、俺の恋。
それでもずっと、君の幸せを願っています。
ハッピーエンドだけが全てじゃない。
実らなかったものだって、大切な俺の一部になる。
だから、いつまでも、君と君への恋を忘れない。
君との夏が終わる。
君と過ごした3年間に、後悔なんて何も無い。
君と出会えたこの奇跡は、かけがえのないものだった。
花火を見た次の日、海辺を歩きながら好きだと伝えた。
「せんせにはもっといい人がいるよー」と遠くを見つめる君が、一番苦しそうだった。
叶うはずない想いだってわかっていた。
伝えていなければ、恋にもなれなかったものを佐久間くんは掬い上げてくれた。
苦しそうに、寂しそうに微笑んで、引いては返す波をずっと見ていた君の横顔を、俺はずっと忘れない。
いつまでも、何年経っても、永遠に、俺の心に色鮮やかに残っていく。
でも、もう戻れないから。
戻れなくてもいい。ここにしっかりあるから。
さよならと、君と重ねた夏に別れを告げて、教室のドアを開けた。
お借りした楽曲
サ・ヨ・ナ・ラSummer Holiday / S.E.M 様
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