_________________
及川視点
家から少し離れたところで、岩ちゃんが立ち止まった。
「松川ん家って言ったけどよ、やめた」
「え?」
「お前、たぶん…他人の家じゃ気ぃ張るだろ」
図星すぎて何も言えなかった。
俺は“気を張る”のが当たり前で、
それを誰にも悟られたくなくて、
家でも学校でも演じてきた。
“安心していい場所”なんて、今までどこにもなかった。
「じゃあ…どこ行くの?」
岩ちゃんはポケットに手を突っ込んで歩き出す。
「決まってんだろ。俺ん家だよ」
足が止まった。
「……え、ちょ、岩ちゃんち!? 無理無理無理!」
「なんでだよ」
「なんか…迷惑…でしょ?」
岩ちゃんは呆れたように鼻で笑った。
「お前、迷惑の基準どこに置いてんだ。俺が呼んでんだから迷惑じゃねぇよ」
簡単に言ってくれる。
でもその“簡単”が、俺には一番ほしかった。
「それに、母ちゃんもいねぇし。今日遅番だし、帰ってくるの深夜だし」
「……」
「安心できるかは知らんけど、お前の逃げ場所くらいは貸す」
逃げ場所。
その言葉に胸がきゅっとなった。
「……ありがと。」
岩ちゃんは何も答えず、歩き続けた。
けど歩幅は俺がついていけるよう少しだけ遅くなってた。
_________________
岩ちゃんの家に入った瞬間、鼻の奥がツンとした。
普通の家の匂い。
洗濯物の柔軟剤とか、ご飯の残り香とか、
そういう“生活の匂い”。
俺の家にはずっとなかったもの。
岩ちゃんは靴を脱ぎながら後ろを見た。
「適当に座れ。
飲み物くらい出す」
「いいよ、自分でやるから」
「お客様扱いすんの嫌なんだろ」
「……まぁ」
「じゃあ黙って座ってろ」
言いながら、岩ちゃんは冷蔵庫からスポドリを二本出して投げてきた。
「おっと…」
慌ててキャッチする。
岩ちゃんはニッと笑った。
「ほら、普通にできんじゃん」
その“普通”が、胸に刺さった。
痛いけど温かい。
不思議な感覚だった。
床に座り、スポドリを開ける。
喉を通る冷たい液体に、今日一日の重さが少し抜ける。
ふと岩ちゃんを見ると、
こっちをじっと観察するみたいに見ていた。
「な、なに?」
「今の顔。初めて見た」
「え?」
「安心してる顔」
胸の奥がぎゅっと鳴った。
そんなの、自分じゃ分からない。
岩ちゃんは続けた。
「いつもガチガチしてんだよ、お前。なんでも完璧にやろうとして、強がって、誰にも弱ぇとこ見せねぇ」
「……だって」
「だって、じゃねぇ」
岩ちゃんは目を細める。
「もう無理なんだろ」
「……」
「だったら、無理すんな」
その言葉に、
ずっと張っていた何かが緩んで、
急に涙がこみ上げた。
「…岩ちゃん…俺、ほんとはずっと…」
声が震えた。
「誰かに、こうしてほしかったんだと思う…」
言った瞬間、涙が落ちた。
止める暇もなかった。
俺の涙を見ても岩ちゃんは慌てない。
まして馬鹿にもしない。
ただそこにいて、聞いてくれる。
「好きに泣け。人の家だし、怒る奴もいねぇし」
「…ごめん…」
「謝んなつってんだろ」
それを聞いた途端――
今まで張り付いていた“普通”の仮面が、
音もなく剥がれた。
岩ちゃんの前で泣くのは、初めてだった。
でも、怖くなかった。
_________________
気づけばソファに横になっていて、
岩ちゃんはテレビをつけたまま隣で座っていた。
「寝てもいいぞ。
今日は誰も起こさねぇ」
「……うん」
目を閉じると、
安心が胸に広がるのが分かった。
家でも、学校でも、
一度も感じたことのなかった感覚。
“安心って、こういうことなんだ…”
初めて知った。
_________________
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!