テラーノベル
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玄関の引き戸を開けた睡蓮のワンピースは色を変え、髪の毛からは雨の雫が滴った。急に走り出した為か持病の気管支喘息の咳が出始め、背中を丸めながらパンプスを脱ぐと酷く咽せた。
「おかえり」
逆光の中、木蓮が心配そうな表情で立っていた。
「睡蓮、あんたなにしてんの!ずぶ濡れで咳も出てるじゃない!」
「…………….ただいま」
睡蓮は木蓮の目を見ずに通り過ぎ、洗面所で手を洗い始めた。
「ほら、これ!」
木蓮は睡蓮にタオルと携帯気管支喘息用ネフライザーを手渡そうとしたが、睡蓮の視線は木蓮の唇に向けられた。
(………..ラメ入りのアプリコットレッド)
それは二人お揃いで購入した口紅だった。睡蓮は雅樹の口元を彩った赤色が飴の色では無い事に瞬時に気が付いた。だからこそ雅樹の唇を奪う無謀な振る舞いに出たのだ。
「ありがとう」
「どうしたの、なにかあったの。しかもこんな遅くまで何処に行ってたの」
「木蓮、お母さんみたいよ」
「だって、今までこんな事無かったじゃない」
睡蓮の目は木蓮に挑むような厳しいものになった。
「雅樹さんのお宅よ」
「……………え」
「雅樹さんとお義父さま、お義母さまとお食事して来たの」
「あいつんち」
「私の作ったロールキャベツを美味しいってお代わりしてくれたわ」
「そうなんだ………」
「楽しかったわ」
「……….良かったじゃない」
睡蓮はそれに返事もせずに階段を上って行った。木蓮は睡蓮の表情に今までとは異なるものを感じ戸惑った。
(睡蓮があいつの家に行った)
雅樹の家で食事をして来たと言う誇らしげな睡蓮。しかも雅樹の両親を交えて自身が持参した料理に舌鼓を打ったと言う。
(……………あいつ、私と結婚したいって言ったのに)
木蓮は睡蓮と雅樹の縁談を応援すると言いながら、心の何処かで雅樹の言葉や深紅の指輪に甘んじていた自分にようやく気が付いた。やはり自分も雅樹に好意を寄せていたのだ。
「………….どうしてこうなるかなぁ」
木蓮は部屋のベッドに腰掛け、ため息を吐きながら枕元に置かれたシリアルナンバー入りのティディベアを眺めた。これは小学六年生の時、父親がアメリカ出張の際に土産物として二人に贈ったぬいぐるみだ。
「お土産だよ」
父親がソファに座らせたのはビターチョコレートに似た焦茶と、ミルクティーのようなベージュのティディベアだった。二人の娘の髪の色に合わせて買い求めたのだが想定外の出来事が起きた。
「これ、私、これにする!」
「…………..えっ」
真っ先にソファに駆け寄った木蓮の手はベージュのティディベアを握っていた。睡蓮は無言で焦茶のティディベアを抱きしめたが実際は自分の髪の色のティディベアが欲しかったらしくベッドの中で泣いたと言う。
「あの時は父さんが失敗したよ………..同じ色を買えば良かった」
「そんな事があったんだ」
木蓮がその事を父親から聞いたのは高校生になってからだった。
そして高等学校の卒業式、桜が綻ぶ頃の出来事だった。
「へぇ、あんなタイプが良いの」
「………………うん」
睡蓮は高等学校2年生の時、バスケットボールクラブに所属している一学年先輩の男子生徒に恋心を抱いていた。普段は受動的な睡蓮がバスケットボールの校外試合を観に行くと言い出した時、木蓮は驚きを隠せなかった。
「分かったわ、着いて行ってあげる」
「………..ありがとう」
そうして二人は体育館の2階からコートを走り回る姿を眺めた。その先輩が卒業する、睡蓮はバスケットボールを刺繍したハンカチと手焼きのクッキー、初めて書いたというラブレターを袋に詰めた。
「…………恥ずかしい」
「分かったわよ、私が渡してくるわ」
「…………ありがとう」
桜の樹の下で事件は起こった。その先輩はプレゼントが木蓮からのものだと思い逆に木蓮が告白されてしまった。
「叶さん、卒業しても付き合ってくれないかな」
「えええーと、違うんだけどな」
「どういう事」
「これ、姉からなの」
「あ……….そういう事か、ならごめん!」
引っ込み思案な睡蓮よりも華やかな木蓮が人目を引いた。
「あ、あのさ睡蓮」
「どうだった?」
「彼女がいるんだって」
「そうなの」
「そう!」
「………….そうなの」
「次よ、次!」
「……次なんてないわ」
嘘も方便でこの件が露見する事はなかったが木蓮は冷や汗をかいた。
「あーでもヤバかった!」
「なにがヤバかったの」
「なんでもないわ」
「そうなの?」
「なんでもない………..なんでもない」
自分の好きな人が妹に好意を抱いていると知ったら睡蓮は酷く落ち込むだろう。
例のティディベアの一件から始まり、その後も選ぶ服、習い事、好意を寄せる男性など木蓮と比較される度に睡蓮の気持ちは沈んだ。
「…………木蓮はなんでも出来るから羨ましいわ」
「睡蓮はもっと自分を出さなきゃ駄目よ」
「……….木蓮みたいには出来ないわ」
「そーんな事ないって!出来る、出来る!」
一度落ち込むと悲観的になる弱い面を持つ睡蓮に対し、木蓮は次第に気を遣う様になった。
「睡蓮、大丈夫か」
「無理しないで、木蓮にお願いしたら?」
そして両親も気管支喘息の気があり自己主張に乏しい睡蓮に手を掛けがちだった。その点に於いては木蓮は言葉に出す事はなかったが寂しい思いをした。
(………….睡蓮もなぁ)
これまで木蓮は周囲に配慮して生きてきた。
(こんなのってアリ?最低じゃない)
そこに現れたのが和田雅樹で本音で気兼ねなく話す事が出来た。それが恋心だと気付いた時、雅樹は睡蓮の想い人、婚約者となっていた。
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