テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#御曹司
うめぼっち

633
鷹槻れん/鷹槻うなの

36,051
#白い結婚
夕凪ゆな
373
うめぼっち

1,598
西園は、応接間の長椅子に、鞄を膝にのせて座っていた。
立ち上がって、頭を下げた。遼に。それから、ことはに。
「夜分に、申し訳ありません。奥様。お美しいお召し物で」
「……ありがとうございます」
「座れ」
遼が言って、自分も座った。ことはは、遼の隣に座った。着物の膝を、揃えて。
西園は、鞄から何も出さなかった。出さないで、言った。
「本店の夜会で、婚前契約書の表紙が、社長の目に触れました。私も、あの場におりました」
遼は、何も言わなかった。
「どこから出たのかを、確かめに参りました。氷川さんの原本は、私の事務所の金庫に。氷川さんのお手元には、写しが一部」
「書斎だ。動いていない」
「奥様の控えは」
西園は、ことはを見た。温度のない、親切な目だった。
ことはは、膝の上の手を見た。
「……店です。柳町の、店の工房の、帳場の引き出しに」
遼が、こちらを見た。初めて、まっすぐに。
「店に置いたのか」
「はい」
「なぜ」
ことはは、顔を上げなかった。上げないで、言った。
「氷川の家に、置きたくなかったので」
応接間が、静かになった。
西園が、咳を一つした。
「奥様。その引き出しに、最近、誰かが触れた心当たりは」
「……あります。催事部の人が、春の資料の回収で来て。わたしが店先に出た隙に。封筒の向きが、変わっていました。表紙を撮ったと、本人から聞きました。中の条文も撮ったけれど、送っていないと。わたしの前で、消しました」
「誰に送ったと」
「麗華さんに。表紙だけ」
「それを、いつお聞きになりました」
「……昨日の朝です」
西園は、頷いた。遼は、何も言わなかった。昨日の朝。夜会の前の日。車の中で、よろしくお願いします、と言った、その前に。ことはは、遼のほうを見られなかった。
遼が、立ち上がった。
「取ってこい」
「……今、ですか」
「今すぐだ。俺が運転する」
西園が、頭を下げた。
「私は、こちらで待ちます。控えの全部がそろっていることを、確かめさせてください」
◇
深夜の柳町は、暗かった。
商店街の灯りは消えている。遼は車を店の前に止めた。角ではなく、店の前に。
ことはは、戸の鍵を開けた。工房の灯りをつける。帳場の引き出し。帳面。その下の封筒。
手が、少し震えた。
封筒を出した。中を見た。一枚ずつ、数えた。第一条から、最後の条まで。従業員の雇用の一条まで。全部、あった。一枚も、欠けていない。
「全部、あります」
声が、工房に落ちた。深夜の工房は、昼より狭く見えた。鍋も、へらも、父の木箱も、灯りの下で黙っている。
遼は、工房の戸口に立っていた。
立って、ことはを見ていない。ガラス窓を見ていた。工房と店先の間の、小さな窓。暗い店先が、窓の向こうにある。
「ここ、朝は……」
ことはは、言いかけた。
朝は、ここに立っている。ガラス一枚の向こうに、台があって、六時半に、誰かが来る。
言わなかった。言ったら、何を聞くことになるか、分かっていた。
遼は、窓から目を離した。
歩いてきて、ことはの手から、封筒を取った。
取って、コートの内側に入れた。
「俺が預かる」
「……それは、わたしの」
「お前の控えだ。それを、俺が預かる。店にも、あの家にも置かない」
「どこに」
「俺の手の届くところだ」
ことはは、その言い方を聞いた。俺の手の届くところ。遼が、自分の持ち物の場所を人に言うのを、ことはは初めて聞いた。
遼は、ことはの手を見た。封筒を持っていた手。荒れた、小豆の色の残る手。
見て、言った。
「七条を、忘れるな」
低い声だった。
ことはは、手を引いた。引いて、袖の中に隠した。
忘れていない。忘れられるはずがない。毎朝、毎晩、思い出している。それを、この人は、忘れるなと言う。
「忘れていません」
声が、少し掠れた。
遼は、何も言わなかった。言わないで、工房の灯りを消した。暗くなった工房で、ガラス窓だけが、外の街灯を少し映していた。
車に戻る前に、遼は一度、店の表を見た。藍色のシャッター。看板。それから、ことはを見ずに、運転席に乗った。
◇
屋敷に戻ると、西園はまだ応接間にいた。
遼が、封筒を渡した。西園が一枚ずつ数えた。全部、ある。
「結構です。頁が抜かれていないことと、奥様が催事部の方から聞いたお話。二つが合います。麗華様のお手元にあるのは、表紙だけと見てよいでしょう。中身のない表紙では、何も言えません。社長も、それは分かっておいでです」
西園は、鞄に封筒を入れずに、遼に返す。遼は、それを持って、書斎へ行った。
西園が立ち上がる。玄関まで、ことはが送った。
靴を履いて、西園は、扉に手を掛ける。掛けて、振り向いた。
声を、低くする。遼には聞こえない高さに。
「奥様」
「はい」
「七条は、あなたを縛るためのものではありません」
ことはは、西園を見た。
西園は、それ以上何も言わなかった。頭を下げて、扉を開けて、夜の中に出て行った。
扉が閉まった。
ことはは、玄関に立っていた。
七条は、あなたを縛るためのものではない。
では、誰を。何を。
廊下の奥の、書斎の扉の下に、灯りはなかった。遼は、もう二階に上がっている。封筒は、遼の手の届くところにある。
帯留めの石が、玄関の灯りの下で、小さく光った。
コメント
1件
いや、22話、すごかった……。「俺の手の届くところだ」って遼が言ったとき、息止まったわ。あの人が自分の持ち物の場所を人に明かすの、初めてなんだろうなって思うと、もう。それと西園の「七条はあなたを縛るためのものではない」――誰を縛るためのものなんだろうって、すごく気になる終わり方だった。封筒の行方も含めて、ここからの展開が待ちきれない!