テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
159
ランプの下の座卓に、送達紙を広げた。
潮で波打った紙を、両手の指で、そっと伸ばす。
冬馬様は、座卓の向こうに座ったまま、一言も発しなかった。目だけが、最後の三文字に縫いとめられている。
トウマ。
刷られた欄は、ほとんど読めた。
上の端に、「電報送達紙」の文字。その下に、細かく区切られた欄が並んでいる。
発信局の欄には、紫のゴム印が押してあった。潮でにじんで、輪郭がぼやけている。けれど、片仮名の四文字は、はっきりと読めた。
「カマクラ」。
受付時刻の欄に、鉛筆の走り書き。
「ゴゴ八ジ五〇フン」。
右下に、配達の判。こちらは、九時十五分と読めた。
「旦那様。電報は、出す人が局の窓口で頼信紙に文を書いて、局の人が受け付けた時刻を記すのです。発信局の判は、その電報を受け付けた局の名です」
私は、ゴム印を指で示した。
「もし東京で出した電報なら、ここには東京の局の名が押されます。鎌倉の局は、受け取って、送達紙に書き写して、配るだけ」
冬馬様の目が、ゆっくりと上がった。
「これは、鎌倉の局で受け付けて、鎌倉の局で配っています。この電報を打った人は、あの晩の八時五十分に、鎌倉の郵便局の窓口に立っていた」
長い沈黙があった。
「その時刻、私は会館の二階の広間にいた」
冬馬様の声は、低く、平らだった。
「議員の集まりで、夕方から、十時過ぎまで。席を立ったのは、手洗いに一度きりだ。……警察は、会館の給仕から、同席した連中まで、一人ずつ確かめた。確かめて、私が東京にいたことを認めた。それで、事故だと決めた」
手袋を外した手が、座卓の上で、拳になった。
「それでも、世間は、私が殺したと言った」
私は、送達紙に目を落とした。
コンヤ十ジ。アズマヤニテマツ。トウマ。
片仮名の、短い一行。そこには、筆の癖も、字の右上がりもない。誰が頼信紙に書いても、局の人の鉛筆で、同じ形になる。
夜会の前に、一度考えたことがあった。誰に呼ばれれば、千鶴さんは、夜の崖まで行っただろう、と。
あのとき、真っ先に浮かんだ顔が、目の前にあった。
答えは、最初から、それだったのだ。
千鶴さんは、旦那様が来てくださると信じて、暗い道を上っていった。
その夜、冬馬様は、寝間へ入らなかった。
夜中に目を覚ますと、縁側の籐椅子に、黒い影が座っていた。海のほうを向いたまま、動かない。
私は、台所へ下りて、湯を沸かした。冬馬様が持ってきた錫の茶筒から、茶葉をすくう。
盆を縁側へ運ぶと、冬馬様が、驚いたように振り返った。
「君が、淹れたのか」
「はい。旦那様のお茶筒と、井戸の水で」
冬馬様は、湯呑みを両手で包んで、ゆっくりと飲んだ。
「……苦い」
「申し訳ございません」
「いや」
冬馬様は、空の湯呑みを、私に差し出した。
「もう一杯、くれ」
沖のほうに、漁り火が三つ、四つ、揺れていた。
*
朝のうちに、百合絵様と二人で、町の郵便局へ行ってみた。
若い局員は、侯爵家の奥様だと聞いて、慌てて奥から年配の局長を呼んできた。
「頼信紙、でございますか。お客様が文を書かれた元の紙は、一年お預かりして、それから焼き捨てる決まりで」
二年前の八月の分は、とうに灰になっていた。
窓口の上の掛け時計を見上げる。夏のあいだは、夜の十時まで受け付けているという。
あの晩の八時五十分、この窓口の前に、誰かが立っていた。頼信紙に、トウマ、と書いた誰かが。
その字を見る手立ては、もう、どこにもなかった。
*
昼前、私はハツさんに、あの晩のことを訊いた。
ハツさんは、井戸端で、前掛けで手を拭きながら、少しずつ思い出していった。
「夕方の六時ごろ、奥様は、東京のお屋敷へお電話をなさいました。廊下の電話の前で、長いことお話しで。必ず、旦那様にお伝えくださいね、と、何べんも念を押しておいででした」
私は、帯の上から、料金票の写しを押さえた。六分。
「それから、七時ごろに、お客様がお見えでした。東京の、将臣の叔父様です。お酒の匂いをさせて」
私は、ハツさんの顔を見た。
「お座敷で、奥様と長いことお話しで。叔父様のお声が大きいもんで、お金がどうのと、台所まで聞こえてまいりました。あたしは、お茶をお出しして、それからお風呂を焚きに、裏へ回りました」
「電報が届いたのは、ご存じでしたか」
「さあ……」
ハツさんは、首を傾げた。
「九時過ぎでしたか、表で、誰かの声がしたような気はいたします。焚き口におりましたもんで。奥様が、ご自分でお出になったんでしょう」
「叔父様は、何時ごろお帰りに」
「九時半ごろでしたか。えらい剣幕で、玄関の戸を、ぴしゃんと」
配達の判は、九時十五分だった。
電報が届いたとき、叔父様は、まだ座敷にいたことになる。
ハツさんの手が、前掛けの上で止まった。
「それから、少しして、奥様が提灯を持って、台所の土間に顔をお出しになったんです。ハツさん、少し、風に当たってくるわね、って」
「そのとき、奥様は」
「お出かけの前に、鏡台の前で、山吹のお帯を、きゅっと締め直しておいででした。浴衣の衿も。まるで、どなたかにお会いになるみたいに」
ハツさんの目が、赤くなった。
「お供いたします、と申しましたら、いいの、一人で、って。……笑っておいででした。あんなに嬉しそうなお顔は、お盆の前に旦那様のお手紙が届いたとき以来で」
暗いところが大嫌いな人が、笑って、提灯一つで出ていった。
私は、帯の上から、送達紙を押さえた。
源造さんが、薪を割る手を止めて、ぼそりと言った。
「十一時になっても、お戻りにならなんで。提灯を下げて、崖道を上りました」
東屋の床に、千鶴さんの提灯が転がっていたという。火は消えていた。
源造さんは、駐在へ走り、それから東京のお屋敷へ電話をした。
夜が明けて、潮が引いてから、岩場で見つかった。
源造さんは、それ以上は言わなかった。言わなくてよかった。
「叔父様がお見えだったことは、警察に話しましたか」
源造さんは、首を振った。
「旦那様の、お身内のことですで。お許しもなく、余計なことは申せません」
ハツさんが、小さな声で付け足した。
「御葬儀のあと、叔父様が、町の料理屋で、お酒に酔って言いふらしておいでだと、魚屋から聞きました。あの晩、崖道で、侯爵様のステッキを持った男を見た、と。……あたし、悔しくて、悔しくて」
*
夕方、私は冬馬様と、もう一度、岬の東屋へ上った。
潮の匂いのする風が、松林を鳴らしていた。
東屋の縁台に、腰を下ろす。
二年前の夜、千鶴さんは、ここに座って、旦那様を待ったのだろうか。提灯を膝に置いて。崖道を上ってくる足音に、耳を澄ませて。
来たのは、旦那様ではなかった。
「叔父上が、あの晩、ここに来ていた」
冬馬様が、柵の際に立ったまま、言った。
「千鶴に、金をせびりに。そして、崖道で、私のステッキを持った男を見たと、言いふらした」
「叔父様は、旦那様だと思いこんでいらっしゃるのです。だから、世間にあの噂を」
冬馬様は、答えなかった。
上着の隠しから、送達紙を取り出した。昼過ぎに、しばらく預からせてくれと言って、私の帯から受け取っていったのだ。
夕日が、紙を透かして、刷られた欄の罫を赤く浮かび上がらせた。
トウマ。
自分の名を、冬馬様は、長いこと見つめていた。
紙を持つ指に、力がこもった。
送達紙の端が、指の中で、かさりと鳴った。
「……私の名で」
潮騒に消えそうな声だった。
「呼び出したのか」
コメント
1件
読み終わりました……この回、すごく重かったです。電報の局名“カマクラ”だけで、千鶴さんを呼び出した人が冬馬様じゃないって証明される場面、ぞわっとしました。千鶴さんが提灯ひとつで笑顔で出ていったシーンが切なすぎて……。冬馬様が「私の名で…呼び出したのか」って言った声が、ずっと耳に残ってます。また読みにきますね🌙