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八月に入ると、鎌倉の空は、毎日のように白く光った。
百合絵様は、朝から由比ヶ浜へ下りていった。縞の海水着の上に浴衣を羽織り、釣鐘型の帽子をかぶって。お鈴は、その後ろから、大きな日傘を差しかけて、ついて歩く。
「お義姉さまも、いらっしゃいな」
「私は、泳げませんから」
「浮いていればいいのよ。千鶴お姉様が、そう教えてくださるはずだったの」
百合絵様は、そう言って、白い砂の上を駆けていった。
縁側で見送っていると、冬馬様が、冷えた麦湯の湯呑みを、黙って私の脇に置いた。井戸で冷やしておいたのだという。
「泳ぎたいなら、来年、教える」
「旦那様が、ですか」
「英国の下宿の娘に、浮き方だけは教わった」
冬馬様は、そう言って、すぐに台所へ引っこんだ。来年、という言葉が、冷えた麦湯と一緒に、喉の奥へ甘く落ちていった。
ハツさんが、魚屋から噂を仕入れてきたのは、その日の昼だった。
「将臣の叔父様が、由比ヶ浜のホテルにお泊まりだそうで。一番いいお部屋に、ひと夏ずっと」
ハツさんは、声をひそめた。
「十一日の晩に、ホテルで夏の舞踏会があるとかで。叔父様は、えらい羽振りで、芸者衆まで呼んで、毎晩お酒だそうです」
私は、冬馬様と顔を見合わせた。
記者倶楽部で恥をかいて、親族の集まりにも顔を出せなくなった人が、なぜ。
*
答えは、その日の午後、向こうから門を叩いた。
縞の着物に角帯、前垂れをかけた、四十がらみの男だった。腰が低いのに、目だけが、家の柱や瓦を値踏みするように動いていた。
「横浜の、蛭間商会の番頭で、佐吉と申します」
男は、玄関の土間で、もみ手をした。
「こちらのお屋敷を、担保にお預かりしておりますので。お留守番の方に、一度、検分をさせていただこうと」
源造さんの顔が、強ばった。
奥から出てきた冬馬様を見て、男は、目を丸くした。
「これは、侯爵様。お見えとは存じませんで」
「担保とは、何のことだ」
冬馬様の声は、静かだった。静かすぎた。
番頭は、懐から、油紙に包んだ証書を出した。
「こちらは副本で、正本は主人の蛭間が持っております。将臣様に、八千円、ご用立てしておりまして。担保に、この別荘の土地家屋一式を。侯爵様の御実印を、ちゃんと頂戴しております」
上がり框の上に、証書が広げられた。
金八千円也。右借用候也。借主、久遠寺将臣。
その左に、担保提供者として、墨の字で「侯爵 久遠寺冬馬」。
名の下に、朱の印が一つ、押されていた。
日付は、大正十二年六月。
「押した覚えはない」
冬馬様が言った。
番頭は、困ったように笑った。
「侯爵様。御実印は、御実印でございますから」
私は、冬馬様の袖を、そっと引いた。
「旦那様。この証書を、少しのあいだ、拝見してもよろしいですか」
番頭が、何か言いかけた。冬馬様が、目だけでそれを黙らせた。
*
洋間の窓際の卓に、証書を置いた。
冬馬様は、上着の内隠しから、鹿革の小さな袋を出した。中から、黄楊の印と、青磁の小さな印肉入れが出てきた。
「実印は、身から離したことがない。屋敷にいるときも、外にいるときも」
冬馬様は、蓋を取った印肉に、印を二度、三度と軽く打ちつけ、白い便箋の上に押した。
指先を少しだけ揺すって、印を上げる。
朱が、紙の上に、くっきりと立ち上がった。
二つの印影を、並べた。
ルーペを当てる。
「旦那様の御印は、久の字の払いの先が、髪の毛一筋ほど欠けております」
本物の朱の中で、「久」の払いが、先のところで、ほんのわずかに途切れていた。
「四年前の春に、一度、床に落とした」
冬馬様が言った。
証書の印影の「久」は、払いの先まで、滑らかに伸びていた。どこも欠けていない。
「欠けのないほうが、偽物です。欠ける前の印の写しから、彫らせたのでしょう」
冬馬様の目が、細くなった。
「襲爵した年に、叔父上の相場の借金を、一度だけ肩代わりした。その証文に、この印を押した。……落とす前だ」
その証文の控えは、叔父様の手元にもあるはずだった。
それから、朱の色。
冬馬様の印肉は、練り朱肉だ。朱が深く、わずかに黄みを帯びて、紙の上に油の艶ごと盛り上がっている。縁が、刃物で切ったように鋭い。
証書の朱は、薄く、赤みが勝っていた。艶がなく、紙の繊維に沿って、細く滲んでいる。
「水っぽい、安い朱肉です。帳場の判に使うような」
押した力のむらも、違った。本物は、四辺が等しく濃い。証書のほうは、左の縁がかすれて、右だけが濃い。押し慣れない手で、斜めに力をかけたのだ。
私は、ルーペを、名の墨と朱の重なるところへ移した。
「冬」の最後の払いの先に、印の縁の朱が、わずかにかかっている。
「墨と朱が重なっているところは、後から来たものが、上に乗ります」
墨の黒い線の上に、朱の粒が、薄く被さっていた。
「名を書いてから、印を押した。証書としては、当たり前の順です。けれど、この名の字は」
横画が、右へ上がっていない。止めも押さえていない。
「旦那様の字では、ありません。旦那様の字を、見たこともない人の字です」
冬馬様は、何も言わなかった。
ただ、左の眉を、指でなぞった。
*
洋間から戻ると、番頭は、青い顔で証書を受け取った。
冬馬様が、二つの印影の違いを、短く告げた。番頭の喉が、ごくりと鳴った。
「せ、正本は、主人が……主人は、十一日の舞踏会に、将臣様と」
番頭は、証書を胸に抱えて、逃げるように坂を下りていった。
「叔父上は、私の名で、この家を売ったも同じだ」
冬馬様は、門の外を見たまま言った。
「千鶴の死んだ、この家を」
その声の底に、聞いたことのない硬いものがあった。
「旦那様。正本を、人前で、出させましょう」
私は言った。
「舞踏会の晩に。叔父様が、一番、人の目を気にする場所で」
冬馬様が、私を見た。それから、ほんのわずかに、うなずいた。
夕方、浜から戻った百合絵様は、話を聞くなり、濡れた髪のまま地団駄を踏んだ。
「千鶴お姉様の別荘を、お金の形に? 信じられない。あたくし、叔父様の山高帽に、砂を詰めてやるわ」
「百合絵様、叔父様は今、カンカン帽だそうです」
お鈴が、まじめな顔で言った。百合絵様は、一瞬黙って、それから、ぷっと吹き出した。
冬馬様は、黙って台所へ入っていった。その晩の卵焼きは、いつもより砂糖が多かった。
*
翌日の午後、冬馬様と、由比ヶ浜のホテルへ出向いた。
白い洋館の、広い玄関。磨いた床に、天井の扇風機の影がゆっくり回っている。
硝子戸の向こうに、芝生の庭と、白い砂浜と、海。日傘の婦人たちが、籐椅子でソーダ水を飲んでいる。
十一日の舞踏会に、侯爵夫妻として出る。冬馬様は、そう支配人に告げるつもりだった。妻殺しの侯爵が、三人目の妻を連れて、鎌倉の舞踏会に。噂は、その日のうちにホテルじゅうを回るだろう。叔父様の耳にも。
冬馬様が、帳場で支配人と話しているあいだ、私は廊下の長椅子で待っていた。
二年前のあの晩、電報が別荘に届いたとき、叔父様は、まだ座敷にいた。叔父様は、何を見て、何を聞いたのだろう。
葉巻の匂いがした。
顔を上げると、白麻の背広にカンカン帽の叔父様が、廊下の角に立っていた。赤ら顔が、日に焼けて、いっそう赤い。
叔父様は、私の前まで来て、帽子のつばを指で押し上げた。
「横浜の番頭が、泡を食って帰ってきたぜ。おめえの差し金だろう」
酒の匂いが、葉巻に混じった。
叔父様は、腰をかがめて、私の耳もとに口を寄せた。
「女が帳場に口を出すんじゃねえ」
低い、ざらついた声だった。
「千鶴みたいになりたいか」
コメント
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ああもう、今回めっちゃ痺れたわ……! まず印鑑の鑑定シーン、解像度エグくない?「久の字の払いが髪の毛一筋ほど欠けてる」とか、ルーペで追いたくなる細かさ。それに「墨の上に朱が乗ってる=後から押した」って理屈、推理モノ好きにはたまらん。 で、最後の叔父のセリフ。 「千鶴みたいになりたいか」って……あれ、完全に脅しの殺意やん。千鶴様の死に叔父が絡んでる可能性、じわじわ見えてきたわ。次の話、ガチで怖いけど絶対読みます🔥
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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