「ご機嫌になったな」
「尊さんもじゃないです? 一つ心配事が減ったんですから」
「……だな」
彼はお腹に回った私の手をポンポンと叩く。
「……正直、宮本の事は、怜香の件が片付いた今、一番気に掛かっていた事かもしれない。あいつが俺の前から姿を消すと決めた以上、もう二度と解決できない問題だと思っていた。……だから七月になったらわだかまりを全部解消できるかもしれない……と思うと、信じられない」
「もう会えない人への想いって、自分の中で昇華させるしかないですもんね。本当に良かった」
そう言うと、尊さんは少し黙ったあと私を抱き締めてきた。
「……なんですか?」
目を瞬かせると、尊さんは私をジッと見つめてくる。
「…………お前って、親父さんの事、何か覚えてるか?」
尋ねられ、私は瞠目した。
「……お父さん、…………は…………」
言われて父の事を思い出そうとしたけれど、『大好きな父が中学生の時に亡くなって、大きなショックを受けた』しか浮かばない。
尊さんは視線を落とした私を見て、「悪い」と謝り抱き締めてきた。
「思い出すのがつらいならいいんだ」
彼はそう言って私の背中をトントンと叩き、私は温かな掌の感触に気持ちを落ち着かせていく。
そのあと、尊さんがお茶を淹れ終えるまで、私は彼の背中に抱きついたまま黙っていた。
やがて私たちはまたソファに戻り、綺麗な色の煎茶を飲む。
「……煎茶って甘くて美味しいですし、マグカップで飲みたいですよね」
「ぶふっ」
私の言葉を聞き、尊さんは小さく噴き出す。
煎茶のまろやかな甘みを感じながら、私はポツポツと語っていった。
「……父の事、言いたくない訳じゃないんです。思い出そうとすると、突然頭の中が曖昧になってしまうんです。パソコンで喩えるなら、それまでサクサク動いていたのに、急に重たくなったような感じで、頭の中がこう……、なんですよね」
言いながら、私は人差し指で目の前の空間にクルクルと円を描き、パソコンが読み込みをしている時に出る青い円を表現する。
「もしくは、周囲一面真っ白な霧に包まれてる中、一生懸命サーキュレーターを回しているのに、一向に霧が晴れない感じなんです。頑張って必死に頭を働かせても、霧は晴れてくれない。……そのうち、疲れて思い出すのをやめてしまうんです」
溜め息をついた私は、一口お茶を飲む。
「ずっと、『どうして父の事を思い出せないんだろう』って考え続けました。……『思い出さないほうがいい事があるんだろうな』とは感じています。父の葬儀に参列した記憶もありませんし、父の死因も思い出せないんです。お墓参りには行きますけど、そこにあるのは墓石だけ。……母や親戚に尋ねても、誰も教えてくれません」
そこまで言って、私はお茶を飲んでしまうと湯飲み茶碗をテーブルに置き、ソファの上で体育座りをする。
「……父の死が良くない事なのは分かっています。思い出せないぐらい、思い出さないほうがいいぐらい、ショックを受けただろう事も想像できます。……だから中学生当時って、全体的に記憶が曖昧なんですよね。現実的に、ちゃんと学校に通って勉強していたと思います。成績はそう悪くなかったので、多分……。恵とよく一緒にいた記憶もありますし、尊さんと出会った記憶も鮮明にあります」
話しながら、私は自分の髪の毛を何とはなしに弄る。
「特定の人に対する強い想いはあるのに、学校行事とか毎日の出来事とかの記憶がほぼないんです。そりゃあ、『大人になったあと中学生時代の事を覚えているか?』って言われたら、最近の思い出に埋もれて薄くなるのは当たり前だと思いますけど……。でも、日常の事は普通だからこそ忘れやすいとしても、何か印象深い事があったら覚えているはずだと思うんです。……でも……」
私は溜め息をつく。
「……覚えていない自分が情けないです。ちゃんと生活していたはずなのに、覚えていないっていう事は、その時を生きていなかったも同義に思えてしまいます。なんだか自分が空っぽに思えて、『皆が青春を謳歌していた時に何をやってたんだろう……』って思ってしまって」
そう言うと、尊さんが私を抱き寄せてきた。
「自分を責めなくていい。……俺も妹の事を忘れていた。……今だから言えるが、妹は体が小さかった分、遺体の損傷が酷かったんだ」
「~~~~っ」
堪らなくなった私は、ギュッと尊さんを抱き締める。
「つらい事があると、防衛本能が働くもんだ。強いストレスを抱えながら生きていると、それに囚われて〝今〟を生きられなくなる。……だから、忘れていてもいいんだ。忘れる事を〝悪〟とするなら、これは必要悪だ」
尊さんの言葉を聞き、フッ……と胸が軽くなった。
「……思い出せなくてもいいですか?」
私は救いを求めて彼に尋ねる。
「いいよ。朱里が笑顔でいられるなら、忘れたままでいいんだ」
「……はい」
彼の言葉を聞いて、私は静かに涙を流す。
「……ずっと、罪悪感があったんです。大好きな父の最期を覚えていないなんて、とんでもない親不孝者だって。…………でも、尊さんが許してくれるなら……っ」
私は頬を伝う涙を拭い、不器用に笑う。
「過去を振り返るのは時々にして、〝今〟を生きよう。それ以上に大切な事はないから」
「はい!」
返事をした私は尊さんの胸板に顔を押しつけ、しばし涙を堪える。
逞しい胸板の奥からは彼の鼓動が聞こえ、私は目を閉じてその温もりを感じた。
幼い頃、甘えっ子の私はよく父に抱き締めてもらっていた。
尊さんと抱き合っていると、硬い胸板の感触とかが父に抱き締めてもらった時に重なるような気がして切なくなる。
彼を父の代わりとは思わないけど、包容力があって優しいところは似ていて、落ち込んだ時に慰められていると、不思議なぐらい勇気を与えてもらえる。
尊さん自身、傷を負った人だからというのもあるんだろうけれど、「彼は父性の強い人なのかもしれない」とも思ってしまった。
「……尊さんのもとに生まれてくる子供って、幸せだと思いますよ」
顔を上げて微笑みかけると、彼は驚いたように目を見開いてから、泣きそうな顔で笑った。
「そうだったらいいな」