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私は、都内の片隅にある築古のアパートに住む、しがないサラリーマンだ。 なぜこんな、隙間風が鳴くような場所に住んでいるのか。理由は単純、家賃が都内では考えられないほど破格だからだ。六畳一間で三万。設備は古めかしく、給湯器は機嫌を損ねればすぐに止まるが、唯一の救いは窓からの景色だった。
目の前に広がる小さな公園。都市部の喧騒を忘れさせてくれるその緑だけが、私の乾いた生活を癒やす唯一の潤いだった。
とはいえ、帰宅後の私はほとんどスマホの画面に釘付けだ。
ある夜、動画を眺めていると、画面に「非通知設定」の不在着信が表示された。番号の履歴を辿ると、見たこともない海外の国番号。
「また業者か。それとも新手の詐欺か……」
鬱陶しさを感じながら、私は履歴を削除し、スマホをテーブルに放り投げた。
仕事で疲れ果てたある夜、外の空気を吸いながら一服しようと、私は窓を開けた。
夜も更けており、公園に子供の姿はない。街灯に照らされた遊具が、奇妙な影を落としているだけだ。
だが、公園の中央。そこに、一人の女が立っていた。
夜の公園にはあまりに不釣り合いな、鮮やかな青いドレス。まるでキャバレーから抜け出してきたかのような派手な装いだった。
ふと、女と目が合った。
驚くほど自分好みの顔だった。彫りは浅く、三日もすれば特徴を忘れてしまいそうな、平坦でつるんとした顔立ち。だが、そのどこか「作り物」じみた美しさに、私は理屈抜きに惹かれてしまった。
「綺麗だ……」
思わず見惚れていると、女はスマホを耳に当て、誰かと通話をしているようだった。やがて彼女は闇に溶けるように公園から去っていった。
翌日も、私は吸い寄せられるように窓を開けた。
彼女はいた。今度は、夜の闇を塗りつぶすような黄色のドレスを纏って。
また、誰かと通話をしている。
その翌日は、燃えるような赤いドレス。
そして四日目。彼女が纏っていたのは、全てを拒絶するような漆黒の喪服だった。
その時だ。テーブルの上のスマホが、震えと共に着信を告げた。
画面には「非通知設定」の文字。
おかしい。マナーモードにしていたはずなのに、着信音が部屋の空気を切り裂くように鳴り響いている。
私は忌々しくスマホを手に取り、電源を切るように画面を操作した。
気を取り直して公園を覗くと、もうそこに彼女の姿はなかった。
ふと、またスマホが震えた。
電源を切ったはずなのに、またしても「非通知設定」の着信。
切っても、切っても、呪いのようにかかってくる。
私は根負けし、通話ボタンを押した。
受話口からは、静寂を煮詰めたようなノイズの向こうから、か細い女の声が聞こえてきた。
『……やっと、出てくれたのね……』
背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。
欲情は一瞬で霧散し、根源的な恐怖が私を支配した。
公園にいた、あの喪服の女だ。なぜ、私の番号を――。
その瞬間、沈黙していた玄関の扉が、壊れんばかりに叩かれた。
ーーコンコン、コンコンコンコンッ!!
私は震える足で玄関へ向かい、ドアスコープを覗き込んだ。
だが、そこには何も映らない。ただアパートの廊下の、ひび割れた壁が見えるだけだ。
意を決してドアを薄く開ける。誰もいない。
「気のせいか……」
安堵し、部屋に戻ろうと振り返った瞬間、心臓が止まるかと思った。
部屋の中央に、あの女が立っていた。
間近で見ると、彼女の顔は「つるん」と異様に滑らかで、鼻も眉も、本来あるべき凹凸が何一つない。
喪服の黒だけが、鮮明にそこにあった。
彼女は無言でスマホを取り出し、画面をタップした。
私の手の中にあるスマホが、けたたましく鳴り響く。「非通知設定」。
「見つけた」
女がそう呟き、一歩踏み出してくる。
私の意識はそこで途切れ、深い闇へと落ちていった。
目が覚めると、朝だった。
枕元のスマホから、聞き慣れたアラーム音が鳴っている。
「……夢だったのか?」
身体中が冷や汗で濡れている。私は定刻通りに鳴るアラームを止め、深すぎる安堵に息を吐いた。
だが、その平穏は数秒と持たなかった。
アラームが止まった直後、画面が強制的に切り替わった。
**【非通知設定】**
心臓が早鐘を打つ。私は震える指で、電話に出てしまった。
「……もしもし」
『もしもし』
スマホから聞こえる女の声。
だが、同時に。
38
#和風ファンタジー
『もしもし』
その声は、私の「真上」からも、重なるように響いた。
私は驚愕して天井を仰ぎ見た。
天井の隅に、彼女が蜘蛛のように張り付いていた。
重力を無視して私を見下ろしながら、彼女はスマホを耳に当て、歪な笑顔で通話を続けていた。
「うあああああぁぁぁ!」
私は靴も履かずに部屋を飛び出し、階段を転げ落ちるようにしてアパートを脱出した。
私はそのまま警察へ駆け込み、必死で状況を説明した。ストーカー被害として受理され、一時的に避難所へ身を寄せた。
数日後、業者が荷物を引き上げるために部屋に入ったが、女の姿はどこにもなかったという。
しかし、奇妙な発見があった。
警察の調査によれば、私が住んでいた部屋の天井裏から、大量の古いスマホと、誰のものか分からない何十通もの喪中ハガキが見つかったのだ。
かつてその部屋で、孤独死した女がいたという。彼女は死の間際まで、誰にも繋がらない電話をかけ続けていたらしい。
私はすぐにそのアパートを解約し、家賃は高くとも、日当たりの良い新築のマンションに引っ越した。
三万の安らぎに、命を懸ける価値はないと痛感したからだ。
新しい生活が始まって一ヶ月。
スマホの番号も変更し、古い端末は物理的に破壊して処分した。
今、私の手元にある最新のスマホは、静かなものだ。
ふと、新しい部屋の窓から外を見る。
そこには公園などない。ただ、無機質な高層ビルと、行き交う人々の活気があるだけだ。
あの「つるんとした顔」を思い出すことも、もうほとんどなくなった。
だが、たまに思うことがある。
あの時、もし私が電話に出なかったら。
あるいは、あのまま彼女と「通話し続けて」いたら。
私はスマホの画面を伏せ、明るいリビングでテレビの音量を少し上げた。
今の私には、守るべき退屈で平和な日常がある。
窓の外で、救急車のサイレンが遠くで鳴っている。
それは紛れもなく、生きている人間の世界の音だった。