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ゆうき あきや
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第188話:閉鎖空間のプレッシャー〜美しき暗殺者の電卓と、見えないボーナス払い〜
黒いパーテーションで完全に外界から隔離された、展示会場の奥深く。
ふかふかのVIPソファーに腰を下ろした俺——株式会社インフィニティ・ワン代表取締役社長、秋谷雪(40歳)は、冷や汗をダラダラと流していた。
目の前のイーゼルには、スポットライトを浴びて神々しく輝く、超人気イラストレーターの美しい版画。
そして隣には、俺の太ももに触れそうな距離で微笑む、タイトな黒スーツの美人営業スタッフ。
まさに天国のような空間。
だが、その天国は、彼女の口から告げられた『数字』によって、一瞬にして地獄へと変貌した。
『——こちらの作品ですが、額装込みで【100万円】となります』
「…………ひゃく、まん」
俺の喉から、カスカスの声が漏れた。
法人口座には数千万のキャッシュがあるが、俺個人の現在の所持金は『千八百円』である。
「(ば、馬鹿な! 版画一枚が100万円!? 中古の軽自動車が買える値段じゃないか! 経費で落ちるとはいえ、個人の財布から一旦立て替えることすら不可能な金額だぞ!)」
俺の頭の中で、危険を知らせるサイレンがけたたましく鳴り響いた。
「あ、いや……素晴らしい作品なんですが、その、今日は持ち合わせが……」
俺がソファーから腰を浮かせ、適当な言い訳で逃亡を図ろうとした、その瞬間。
『ふふっ。社長様、ご安心ください』
ガシッ。
お姉さんの白く細い指が、俺のヨレヨレのジャケットの袖を、力強く、そして絶対に逃がさないという強い意志を持って掴んだ。
『まさか、100万円を現金一括で持ち歩いているなんて思っていませんよ。むしろ、一流の経営者様ほど、キャッシュフローを重視して【手元の現金】は残しておくものですから』
「えっ……あ、ああ! もちろんだ! キャッシュ・イズ・キングだからな!」
お姉さんの巧みなフォロー(おだて)に、俺の貧相なプライドが反射的に反応してしまう。
『ですよね! ですから、今回のような特別な美術品をご購入されるお客様には、私どもが提携している信販会社を使った【特別アートローン】をご案内しているんです』
そう言うと、お姉さんはどこからともなく、黒いスタイリッシュな電卓を取り出した。
カタッ、パチパチパチパチッ!
迷いのない、恐ろしく滑らかで素早いタイピング。
それはまさに、獲物を確実に仕留めるプロの暗殺者(エウリアン)の動きだった。
『社長様。今なら特別に、最大120回払いの長期ローンが組めます。……見てください。100万円の版画でも、月々の支払いに換算すると……』
お姉さんが、数字の弾き出された電卓の液晶画面を、俺の目の前にスッと差し出した。
『月々、わずか【3,800円】ですよ?』
「……さ、さんぜんはっぴゃくえん!?」
俺は目を見開いた。
『はい! たったの3,800円です。社長様なら、月に一回、ちょっといいランチを我慢する程度の金額ですよね? これだけで、社長室にこの最高のアートが飾れて、クリエイターへの支援にもなるんです』
「(……月々3,800円……! それなら、月給10万円の俺の極貧生活でも、なんとか捻出できる金額だ!)」
俺の脳内で、急速に計算式が組み上がっていく。
目の前には、世界最高峰の神絵師の版画。
隣には、俺を「一流の社長」と信じて尊敬の眼差しを向けてくる美女。
そして、月々たったの3,800円という、魔法のような数字。
「なるほど……。それなら、月々の会社の経費(小遣い)として処理しても、まったく痛くない金額だな」
俺が大きく頷くと、お姉さんは「わぁっ!」と声を上げて俺の手を両手で包み込んだ。
『さすが社長様! 決断が早くて、本当にかっこいいです!』
「ふっ……。ビジネスはスピードが命だからね」
だが。
極限まで自尊心を膨張させられ、美女の香水と笑顔に完全に思考を奪われていた俺は、致命的な【罠】を見落としていた。
お姉さんが差し出してきた、信販会社のローン申込書。
その右下の端のほうに、虫眼鏡でなければ読めないような『極小の文字』で、こう書かれていたのだ。
※【120回払い:年2回(夏・冬)ボーナス月加算60,000円】
そう。
月々3,800円というのはあくまでフェイク。
エウリアン特有の極悪な金利手数料がたっぷり乗った支払総額は【165万円】を優に超え、さらに年に二回、夏と冬に『6万円』という重いボーナス払いが、10年間にわたって強制的に加算される悪魔のローン設定だったのである。
役員報酬が月10万円で固定されている貧困社長(俺)に、夏と冬のボーナスなど存在するはずがない。
そもそも、40歳の俺がこの120回(10年)ローンを払い終える頃には、50歳の初老になっているというのに。
そんな罠に1ミリも気づかないまま、俺は「芸術を支援する一流の経営者」という見栄に酔いしれていた。
『では、社長様。こちらの申込書に、ご署名とご捺印をお願いいたします』
お姉さんが、俺の目の前に、高級そうな黒いボールペンをスッと差し出す。
「ああ。構わないよ」
俺は、まるで数億円のビッグプロジェクトにサインするCEOのような、堂々とした態度でボールペンを受け取った。
閉鎖空間の重いプレッシャーと、甘いおだてに絡め取られ。
月給10万円のスーパーボトム社長は今、165万円へと膨れ上がった資本主義の地獄の釜の蓋を、自らの手でこじ開けようとしていた。
コメント
1件
第188話、めっちゃ面白かったです!「月々3,800円」という魔法の数字に惑わされて、気づいたら165万円+ボーナス払いの罠にハマっていく秋谷社長……。美人営業の電卓さばきを「暗殺者」に例える表現が秀逸で、読みながら思わず「やめてー!」と叫びたくなりました(笑)。閉鎖空間×自尊心くすぐり×小さい文字のトリプルコンボ、リアルすぎて怖いです。続きがすごく気になります!