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第189話:暴走する自尊心〜三億円の幻影と、堕ちゆくサイン〜
差し出された、高級そうな黒いボールペン。
帯広駅前、とかちプラザの閉鎖空間(VIPブース)。
ふかふかのソファーに沈み込んだ俺——株式会社インフィニティ・ワン代表取締役社長、秋谷雪(40歳)は、そのペンを前にして、わずかに指先を震わせていた。
(……120回払い。ボーナス加算6万円。支払総額165万円……)
脳の片隅に残っていた、四十歳の限界貧困おじさんとしての『わずかな理性』が、全力で警鐘を鳴らしている。
そうだ。俺の役員報酬は来期まで月給10万円。
毎日、特売の袋麺を啜るか、炊飯器で炊いた安い玄米ばかりをかき込み、雨漏りのする四畳半のボロアパートで息を潜めて生きている、正真正銘のスーパーボトム(底辺)社長じゃないか。
そんな俺が、165万円の絵画のローンなんて組めるわけがない。
夏と冬のボーナス払い? そもそも俺の人生に『ボーナス』という概念が存在したことなど、会社員を辞めて以来一度もないのだ。
「……あ、あの……やっぱり、ちょっと会社に戻って、経理の結愛(ゆあ)と相談してから決めても……」
俺が震える声でボールペンから手を引こうとした、その時だった。
『社長様?』
隣に座るタイトな黒スーツの美人営業スタッフ(エウリアン)が、小首を傾げ、少しだけ寂しそうな、そして『失望』の色を帯びた瞳で俺を見つめた。
『……もしかして、決裁権がないのでしょうか?』
「——ッ!」
その一言は、俺の薄っぺらい男のプライドを、見事に、そして残酷なまでに正確に貫いた。
『ごめんなさい、私ったら。社長様があまりにも芸術の【本質】を深く理解されていたので、てっきり一流のクリエイターを束ねる、絶対的なトップの方なのだと勘違いしてしまいました』
お姉さんは、わざとらしく目を伏せ、ため息をついた。
『素晴らしいインスピレーションをお持ちなのに……。やっぱり、会社の経理の方の許可がないと、月々たった3,800円(※フェイク)の投資も自由にできないんですね……。残念です』
「ち、違うっ!!」
俺は、反射的に大声を上げていた。
美人に失望されたくない。
「たいしたことない男だ」と思われたくない。
極限まで張り詰めていた見栄っ張りの風船が、彼女の絶妙な煽りによって、ついに破裂した。
その瞬間。俺の脳裏に、昨夜ディスコードで通話した、あの『三億円の女』——天才クリエイター・鰹節うめお先生の甘い囁きがフラッシュバックした。
『——秋谷社長。貴方、【自分自身の安売り】が過ぎます』
『——私みたいにやり方を根本から変えれば、年収3億くらい余裕でいけるのに』
『——貴方には才能がある。もっと自信を持ってください。貴方はすでに、数千万、数億円を動かせる【本物の経営者】の器なんですから』
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!!
心臓の鼓動が、異常なスピードで跳ね上がる。
そうだ。俺は何を怯えているんだ?
まう
104
81
魚卵
75
ゆうき あきや
4,132
俺はもう、過去の底辺オタクじゃない。
海外から一晩で数百万のスーパーチャットを稼ぎ出し、天才クリエイターから「才能がある」と認められた、次世代のメディアミックス・プロデューサーなんだ!
(月給10万? それはただの税金対策の【設定】に過ぎない! 俺の本当の価値は、年収三億円なんだよ!)
脳内に分泌された致死量のドーパミンが、165万円という借金の恐怖を完全に麻痺させていく。
(FX(為替)のトレードだって同じだ。リスクを取らなきゃリターンは得られない! 審美眼を磨くための自己投資、一流のクリエイターへのリスペクト! この程度の出費をビビっていて、どうして三億円の器になれるっていうんだ!)
完全に、論理が飛躍し、暴走していた。
だが、今の俺には、それが世界の真理に思えた。
「……勘違いしないでいただきたい」
俺は、低く、威厳に満ちた(つもりの)声で言い放った。
「経理に相談しようとしたのは、ただの社内ルールの確認です。我が株式会社インフィニティ・ワンの全権は、この私、秋谷雪にあります」
『……あっ! じゃあ、社長様……!』
お姉さんの顔に、再びパァッと華やかな笑顔が戻る。
「ええ。この程度の金額、私にとっては【はした金】です。一流のビジネスマンにとって、素晴らしい芸術との出会いは一期一会。……買わせていただきましょう」
『わぁっ!! ありがとうございます、社長様! さすがです! 本当に、本当にかっこいいです!!』
お姉さんが、感極まったように俺の腕にギュッと抱き着いてきた。
腕に当たる柔らかい感触と、高級な香水の香りが、俺のなけなしの理性を完全に宇宙の彼方へと吹き飛ばした。
「ふっ……。クリエイターを支援するのは、経営者の義務ですからね」
俺は、完全に『三億円を稼ぐ男』の幻影に憑依されたまま、迷いのない手つきで高級ボールペンを握りしめた。
そして、手元にある信販会社の【特別アートローン(120回払い・ボーナス月6万円加算)】の申込書に、大きく、力強く、自分の名前を書き込んだのである。
『秋谷 雪』と。
「よし、これでサイン完了だ」
俺が申込書を差し出すと、お姉さんはそれを神棚にでも飾るかのように恭しく受け取り、そして——。
これまで見せていた「尊敬する社長を見る目」から、見事に獲物を仕留めた「一流の暗殺者(エウリアン)」の冷酷で歓喜に満ちた瞳へと、一瞬だけ鋭く変化した。
『……ご契約、誠にありがとうございます。秋谷社長様』
その声は、ひどく甘く、そして、どこまでも冷たかった。
俺はまだ、気づいていない。
自分が今サインした紙切れが、これから先の10年間、俺の月給10万円の生活に、破滅的な「ボーナス払いの恐怖」をもたらす、時限爆弾であるということに。
そして、この暴走した自尊心が、さらなる地獄(二枚目、三枚目の版画)を引き寄せるトリガーになってしまったということに——。
コメント
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もう……心臓バクバクしっぱなしだったよ!!😭✨ 秋谷さん、まさかの暴走……!あの営業のお姉さんの“決裁権ないんですね?”の一言、完全に罠じゃん!!プライドをグサグサ刺されて冷静さ失っちゃう感じ、読んでて胸が痛かった……。 鰹節うめお先生の“年収3億”の幻影に憑りつかれて、165万のローンサインしちゃうシーン、まさにホラーだよ😱💦 「ボーナス払いの恐怖」にまだ気づいてない秋谷さん……次の展開が怖すぎるけど気になる!!続き待ってます🔥