テラーノベル
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北陸の温泉宿での二泊三日のメンテナンス旅行から帰還した翌日。
東京・丸の内の神崎ホールディングス本社最上階にある社長室には、心地よい緊張感が張り詰めていた。
神崎の巨大なマホガニー製執務机の真横に据えられた私の秘書デスク。
左手首には特注ロック式の黒いスマートウォッチが巻かれ、私は昨日北陸のブティックで神崎が選んでくれた深紅に近いボルドーのワンピースに、仕立ての良いネイビージャケットを羽織ってパソコンに向かっていた。温泉と薬膳料理のおかげで肌ツヤは過去最高に良く、朝のバイタルスコアも満点に近い。
「……心拍数が八十六で推移しているな、琴音。交感神経が少し優位になっている。午後二時からの母さんとの面談、やはり緊張しているか?」
隣でタブレットの決裁書類に電子署名を入れていた神崎が、画面から視線を上げて声をかけてきた。
「はい、少しだけ。でも、怖いからではありません。お義母様に正面から認めていただくための、心地よい武者震いのようなものです」
今日の午後二時、社長室隣の特別VIP応接室に、神崎の母でありグループの大株主でもある会長夫人・神崎凛子がやってくる。
クルーズパーティーでの公開宣言を受け、「本当に蒼の婚約者として神崎家に迎え入れる器があるのか、私が直接審査する」と通告してきたのだ。
神崎は当初「母さんの時代遅れなテストなど俺が断る」と言ったが、私の方から「自分の実力で認めさせたいので、どうか受けさせてください」と頭を下げたのだった。
「いい目だ。君の意思は尊重する。だが、君の脳のパフォーマンスを最大化させるための『燃料』は、俺の責任で用意させてもらうからな」
◆
午後二時ちょうど。
特別VIP応接室の重厚な扉が開き、格調高い薄紫色の訪問着を寸分の狂いもなく着こなした神崎凛子が、氷のような威厳を伴って姿を現した。帯留めに輝く翡翠の煌めきと、一切の揺らぎがない立ち居振る舞いは、長年にわたり名門・神崎家の伝統を守り抜いてきた女主人そのものだった。
「ごきげんよう、白石さん。逃げずにこの場へ立った度胸だけは褒めてあげましょう」
「お忙しい中お時間をいただき、心より感謝いたします、会長夫人」
私は背筋をピンと伸ばし、背中の角度から呼吸のタイミングまで非の打ち所のない最敬礼で出迎えた。
凛子はソファの中央に腰を下ろすと、象牙の扇子を膝に置き、テーブルの上に英語とフランス語で記された分厚い契約書案と企業データの束を置いた。
「口先だけの覚悟なら要りません。実務と教養で示しなさい。……明後日、蒼はフランスの老舗ラグジュアリーコングロマリット『リュミエール社』のベルナール会長と、極秘の資本業務提携交渉を行います。相手は日本の伝統文化と法務リスクに極めて厳しい老貴族です」
凛子の鋭い瞳が、私を値踏みするように細められた。
「あなたには今から二時間で、この英文・仏文契約書八十ページのリーガルリスクの洗い出し、ベルナール会長の思想プロファイリング、当日供する日本茶と茶器の選定、さらにフランス語での歓迎スピーチ原稿の作成までを、すべて一人で仕上げてもらいます。一つでも不備があれば、蒼の婚約者としても専属秘書としても失格とみなし、即刻身を引いてもらいます」
通常なら、法務部と国際事業部の精鋭チームが三日がかりで行う分量のタスクだった。明らかな難題であり、並の秘書なら目次を見ただけで心が折れる試練だ。
しかし、私の心にひるみはなかった。
「承知いたしました。十六時ちょうどに、すべての成果物を揃えて提出いたします」
私は資料の束を両手で受け取ると、社長室の自分のデスクへと戻り、猛烈な勢いで作業を開始した。
静かな社長室に、私が叩くキーボードの高速な打鍵音だけが機関銃のように響き渡る。画面の左半分にフランス語の原文、右半分に国内法および国際商取引法の判例データベースを並べ、条文の裏に潜む賠償責任の上限設定や競業避止義務の抜け穴を一つずつ洗い出していく。さらにベルナール会長が過去に寄稿した文化コラムから、彼が日本の侘び寂びと薩摩藩の交易史に深い造詣を持っている事実を突き止め、歓迎スピーチの導入部にさりげなく織り込んだ。
(絶対にやり遂げる。私が社長のお荷物ではなく、隣で共に戦えるパートナーだと証明するために……!)
開始から一時間が経過した十五時過ぎ。
極度の集中とノンストップの外国語処理により、私の呼吸が少しずつ浅くなり、こめかみの奥に鈍い熱と疲労感が滲み始めた。脳が猛烈な勢いでブドウ糖と酸素を消費し、急速にガス欠を起こしかけているのだ。
――『ブブッ、ブブブッ!』
左手首のスマートウォッチが、心拍数百十二とストレス値の上昇を告げて短く振動した。
「――そこまでだ、琴音。一度手を止めて背もたれに寄りかかれ」
すぐ隣の席から立ち上がった神崎が、私の椅子の背を優しく支え、デスクの端に美しい白磁の小皿と保温マグカップを置いた。
「しゃ、社長!? ダメです、まだあと五十分でスピーチ原稿と茶器の選定理由書をまとめないと……!」
「脳のグリコーゲンが枯渇しかけている。このまま無理に走り続ければ後半の判断精度が落ちる。三分だけ俺に身体を預けろ。……ほら、口を開けろ」
神崎が銀のピックで私の口元へ差し出したのは、艶やかなダークチョコレートでコーティングされた一口サイズの球体だった。
「俺特製の『ブレイン・フード』だ。ローストしたクルミとアーモンドのペーストに、即座に脳のエネルギー源になるMCTオイルとカカオ八十パーセントのクーベルチュール、さらに脳血流を促す微量のカルダモンと黒胡椒を練り込んである。ゆっくり噛んで舌の上で溶かせ」
「んっ……」
言われるままに口に含むと、濃厚なカカオのほろ苦さとナッツの香ばしさ、そして爽やかなスパイスの刺激が口いっぱいに広がった。
同時に神崎が私のこめかみから首筋のリンパを親指の腹でぐっと心地よく押し流し、差し出されたローズマリーとペパーミントの温かいハーブティーを一口飲むと――驚くべきことに、霞んでいた視界が嘘のようにクリアに晴れ渡り、頭の芯から新しい思考力が湧き上がってきたのだ。
「すごい……っ、頭の霧が一気に晴れて、指先まで軽くなりました……!」
「当然だ。君の脳細胞の代謝速度を計算して今朝仕込んだ特製のエサだからな。……残り五十五分、今の君なら十分お釣りが来る。行ってこい、俺の最高の秘書」
神崎の大きな手が、私の頭をポンと力強く撫でた。その掌の温もりが、私に無敵の勇気をくれた。
◆
十六時ちょうど。
特別VIP応接室へ戻った私は、凛子の前に美しく製本された四部のレポートを静かに提出した。
凛子は無言でページをめくり、老眼鏡の奥の厳しい目で一条ずつ精査していく。応接室の重厚な柱時計が時を刻む音だけが響き、張り詰めた空気が肌を刺すようだった。しかし不思議と私の呼吸は乱れていなかった。神崎が与えてくれたブレイン・フードの余韻と、すぐ斜め後ろで私を見守ってくれている彼の存在が、私の背中を力強く支えてくれていたからだ。
五分、十分と静寂が流れ――やがて凛子の手がピタリと止まった。
「……仏文契約書第四十二条の商標権帰属リスクの指摘、こちらの有利な改定条文案まで添えてあるわね。茶器の選定も、ベルナール会長の故郷リヨンと歴史的関わりの深い江戸後期の薩摩焼を選ぶとは……単なる語学力だけでなく、相手の懐に飛び込む教養と戦略眼がある」
凛子はパタンと資料を閉じ、感嘆を隠せない瞳で私を見上げた。
「見事ね、白石さん。二時間でこれだけの精度の仕事を一人で完遂する秘書など、神崎グループ広しといえども他にいないでしょう。ビジネスの実務能力については文句なしの満点です」
「ありがとうございます、会長夫人」
「ですが――妻となると話は別です。蒼から聞きましたよ、あなたは私生活では自炊もろくにできないとか。神崎家の当主たる者が、毎日台所に立って妻の食事を作るなど、世間体が――」
「母さん。その件なら、先日のクルーズでも言ったはずだ」
部屋の奥で静かに見守っていた神崎が歩み寄り、私の肩をしっかりと抱き寄せた。
「俺は、誰かに世話を焼かれるために結婚するんじゃない。俺が琴音の健康と胃袋を二十四時間管理し、彼女が最高のコンディションで俺の隣に立ってくれること――それ自体が、俺自身の経営パフォーマンスを極限まで高める唯一の条件なんだ。他人の世間体など、俺たちの幸福には一ミリも関係ない」
「そして会長夫人」
私は神崎の隣で一歩前に出ると、凛子の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「現在は神崎社長に甘やかしていただいておりますが、私も今、基礎的な栄養学と消化に良い家庭料理を勉強し始めております。社長が万が一お疲れの時には、必ず私が社長のお身体をお守りしてみせます」
私の宣言に、凛子はしばらく目を丸くしていたが、やがて扇子をパチンと閉じて、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「……負けたわ。あの冷徹で誰にも心を許さなかった蒼が、ここまで一人の女性を愛し、そしてあなたもまた、蒼の重すぎる愛を受け止めて並び立とうとしているのね」
凛子は立ち上がると、私の手を取って優しく頷いた。
「合格よ、琴音さん。あなたを蒼の正式な婚約者として認めます。まずは蒼のペントハウスで共に暮らし、来月の全社最大の繁忙期を二人で乗り越えてみなさい。それが終わったら、神崎家主催で最高の結婚式を挙げましょう」
「お義母様……っ! ありがとうございます……!」
凛子が応接室を後にした瞬間、緊張の糸が切れた私の身体を、神崎がぐいと抱き上げた。
「よくやったな、琴音。……実は、母さんに今日この最高難度のテストを課すよう裏で頼んだのは俺なんだ。君自身の力で母さんをねじ伏せれば、君がもう二度と『自分なんかが』と卑下して逃げ出さなくなると思ってな」
「ええっ!? しゃ、社長が裏で仕組んだんですか!? ひどいです、私あんなに必死だったのに……っ!」
「おかげで外堀も内堀も完全に埋まっただろう?」
神崎は泣き笑いする私の左手を取り、スマートウォッチが巻かれた手首のすぐ先――薬指に、ポケットから取り出した大粒のダイヤモンドの婚約指輪をゆっくりと滑らせた。
「まずは今日から、俺のペントハウスでの半同棲開始だ。名実ともに、君の二十四時間を俺が管理するぞ、俺の可愛いフィアンセ」
コメント
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もう琴音ちゃんの脳みそフル回転すぎて、読んでるこっちまで息止めてたわ…!! ブレイン・フードってまさか魔王が手作りしてるのかよ、しかもMCTオイルとかちゃんと計算してて草。二人が並び立つ景色、やっぱ最高としか言いようがない🔥
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