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会長夫人・凛子からの試練を突破し、左手の薬指に眩いダイヤモンドの婚約指輪を贈られたその週末から、神崎蒼の最上階ペントハウスでの「半同棲生活」が始まった。
平日の大半と週末を彼のペントハウスで共に過ごし、来月の全社最大の繁忙期を乗り越えたら正式に入籍するというステップだ。広々としたウォークインクローゼットの半分には私のスーツやワンピースが並び、洗面台にはお揃いのバスタオルと歯ブラシが置かれている。その光景を目にするたび、胸の奥がくすぐったいような幸福感で満たされた。
会社では念のため旧姓のまま「冷徹な神崎社長と氷の専属秘書」として振る舞っているが、一歩自宅へ帰れば、神崎の過保護な健康管理はこれまで以上に甘く、そして徹底されていた。
「――琴音。その右手に持っている箱を、今すぐ元の棚に戻しなさい」
よく晴れた日曜日の午後。
都内の一等地にある、有機農産物と高級輸入食品ばかりを扱うオーガニックスーパーの通路で、神崎の低く涼やかな声が響いた。
休日の黒いカシミヤニットにスラックス姿でショッピングカートを押す神崎は、スーパーの照明の下ですら映画俳優のような圧倒的なオーラを放っており、すれ違う女性客たちが次々と振り返っていく。しかし当の彼の鋭い琥珀色の瞳は、私の手元だけを正確に捉えていた。
「えっ……でも蒼さん、これ、新発売の塩キャラメルナッツ・クッキーですよ? パッケージのリスの絵も可愛いですし、週末くらいこういう市販のお菓子も……」
半同棲が始まってから、二人きりの時は『社長』ではなく『蒼さん』と呼ぶよう厳命された私は、おずおずと上目遣いで抗議した。
しかし蒼さんは私の手から箱を取り上げて裏面のラベルを一瞥するなり、冷徹な管理栄養士モードで首を振った。
「原材料名を見ろ。果糖ブドウ糖液糖にショートニング、人工香料に乳化剤のオンパレードだ。そんな精製糖と酸化脂質の塊を、俺が毎日丹精込めて整えている君の純粋な胃腸に入れるわけにはいかない。クッキーが食べたいなら、帰ってから俺がフランス産の発酵バターとアーモンドプードル、てんさい糖で焼いてやる」
「うぅ……蒼さんの焼いてくださるクッキーが世界一美味しいのはわかっていますけど、たまにはジャンクな甘さも恋しくなるのが乙女心というものなのに……」
しょんぼりとクッキーの箱を棚に戻した私は、彼の後ろをトボトボとついて歩きながら、乳製品コーナーの端にある特設ショーケースに目を留めた。
そこに並んでいたのは、黄金色のバニラビーンズ入りカスタードと焦がしカラメルが二層に輝く『週末限定・極上なめらか濃厚プリン』だった。
(あ、これ……金曜日の昼休みに広報部の小鳥遊さんが『一口食べたら天国に行ける背徳の味です!』って絶賛してた限定プリンだ……!)
横を見ると、ちょうど蒼さんが隣の精肉カウンターで、熟成黒毛和牛ヒレ肉のサシの入り方について専門スタッフと真剣な議論を交わしている。
私は周囲を伺い、音を立てないようにプリンのガラス小瓶を一つ手に取ると、カートのカゴの底――大きな有機ブロッコリーとロメインレタスの葉の下にそっと滑り込ませた。
(よし……! 今ならバレてない! このスーパーはレジ係の方が袋詰めまでしてくれるから、お会計で蒼さんがブラックカードを出している隙に、私が冷蔵バッグの底へしまっちゃえば完全犯罪成立だわ!)
今夜、蒼さんが書斎で海外支社とのリモート会議をしている隙に、一人でこっそり味わおう。
私は自分の小さな秘密計画に胸を躍らせながら、何食わぬ顔で「蒼さん、お肉は決まりましたか?」と微笑みかけた。
――この時の私は、うっかり失念していたのだ。私の左手首には、心拍数のわずかな上昇すらリアルタイムで彼に送信し続ける、特注の黒いスマートウォッチが巻かれていることを。
◆
その日の夜、二十三時十五分。
東京の夜景を一望できるペントハウスの広いリビングは、間接照明の柔らかい光だけに包まれて静まり返っていた。
夕食の絶品ローストビーフと、蒼さんが本当に手焼きしてくれたサクサクのアーモンドクッキーを堪能した後、蒼さんは「ロンドン支社との定例ミーティングがあるから三十分ほど書斎にこもる。君は先にベッドに入っていろ」と言って奥の防音書斎へ入っていた。
(……よし、書斎のドアは閉まってる。今がチャンス!)
お風呂上がりの薄桃色のシルクパジャマ姿の私は、スリッパの足音を忍ばせてアイランドキッチンへと向かった。
大型冷蔵庫の野菜室の扉をそっと引き、キャベツの陰に隠しておいた『極上なめらか濃厚プリン』の小瓶を取り出す。
(ふふっ、よく冷えてて美味しそう……! 半分だけ食べて、残りは明日の朝にすれば血糖値もそんなに上がらないはずよね)
小さな銀のティースプーンを手に、キッチンのカウンターの陰で金色の蓋を開ける。
芳醇なバニラとカラメルの甘い香りがふわりと立ち昇り、私がぷるぷるのプリンをすくって唇へ運ぼうとした、まさにその瞬間だった。
――『ブブブッ!』
左手首のスマートウォッチが、短い警告振動を鳴らした。
「ひゃっ!?」
同時に、背後から音もなく近づいてきた長身の影が、私の身体をカウンターとの間にすっぽりと閉じ込めた。
「……琴音。深夜二十三時過ぎに、冷蔵庫の前で何をしている」
「あ、あわわわっ!? あ、蒼さん!? ロンドン支社とのリモート会議は……!?」
振り返ると、そこには白いルームシャツの袖をまくり上げ、オフ用の銀縁眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせた蒼さんが仁王立ちしていた。
「ミーティングなら十分前に終わった。それより質問に答えろ。その右手に握っているガラス瓶は何だ?」
「え、えっと、これはその……腸内環境を整えるための発酵乳製品というか……」
「苦しい言い訳をするな。昼間、スーパーの乳製品コーナーの前で君の心拍数が九十二に跳ね上がり、カゴのブロッコリーの下に何かを隠した瞬間に九十八になった。そして今、冷蔵庫の野菜室を開けた瞬間に百十五だ。……俺が君の幼稚な隠蔽工作に気づいていないとでも思ったか?」
「えええっ!? す、スーパーの時から全部筒抜けだったんですか!?」
「当たり前だ。君が自分から『実はプリンを買ってしまいました、明日の昼に半分ずつ食べてもいいですか』と正直に白状してくるか、試して泳がせておいたんだ。……なのに、俺が書斎に入った隙を突いて、深夜二十三時に隠れて精製糖と脂質の塊を摂取しようとしたな?」
蒼さんは私の手からプリンの小瓶とスプーンを取り上げ、大理石のカウンターに置いた。
そして有無を言わさず私の手首を掴むと、リビングの大きなカウチソファへと連れていき、深く腰を下ろした自分の膝の上へと私をうつ伏せに近い形でおろした。
「きゃっ……! あ、蒼さん、この体勢って……っ!」
「先日の深夜のポテチ事件の時にも言ったはずだ。俺が怒っているのは、プリンを食べたがったことじゃない。深夜の糖分摂取が睡眠の質と自律神経をどれほど損なうか理解していながら、俺に嘘をついて隠れて食べようとしたその『自己管理の甘さ』だ」
蒼さんのたくましい左腕が私の腰をしっかりとホールドし、シルクのパジャマのズボン越しに、彼の大きな右手がぴたりと重ねられた。
「あ、あのっ、ごめんなさい蒼さん! まだ一口も食べてません、未遂ですから……っ!」
「未遂だろうが、隠蔽してハウスルールを破ったことには変わりない。俺の婚約者としてこのペントハウスで暮らす以上、健康管理の規律違反にはきっちりお仕置きだ。五回いくぞ。数を数えて反省しろ」
――パシンッ!
「ひゃんっ……!」
乾いた音と共に、滑らかなシルク生地越しにお尻へ熱い衝撃が弾けた。
怪我をさせるような乱暴な力ではないが、掌の面積が広くスナップが効いているため、パジャマ越しでもじんわりと芯に響く恥ずかしい熱さが広がる。
「ほら、一、だろう。なぜ深夜の間食が禁止なのか、自分の口で言ってみろ」
「い、いちっ……! よ、夜中に急激に血糖値を上げると、睡眠中の成長ホルモンの分泌が妨げられて、翌朝の胃腸と自律神経が乱れるからです……っ!」
――パシンッ! パシンッ!
「ふぁっ、んんっ……! に、さんっ……!」
「よく分かっているじゃないか。頭では理解しているのに、俺の目を盗んで隠れて食べようとした悪い子は誰だ?」
「わ、私ですっ……! 蒼さんに言えば絶対に却下されると思って、ブロッコリーの下にこっそり隠しました……っ!」
――パシンッ! パシンッ!
「ひゃうっ、よ、よん……ごっ……! ごめんなさい、もう絶対に隠れて買い食いなんてしませんからぁ……っ!」
五発目が少し強めに落とされ、羞恥と熱さで私の目尻からポロポロと涙がこぼれた。
すると蒼さんはすぐに叩く手を止め、火照ったお尻を大きな手のひらでゆっくりと円を描くように優しく撫でさすりながら、私の身体を膝の上へと抱き起こした。
「……よし、最後まで素直に謝れたな。よく頑張った、琴音」
蒼さんは私の頬を伝う涙を指先で丁寧に拭い取ると、カウンターから先ほどのプリンの小瓶を持ってきた。
「せっかく君がそこまで食べたがっていたんだ。一口だけ、俺が安全に処理して食べさせてやる」
「え……? 食べていいんですか……?」
「ただし、普通の食べ方は許さない。隠蔽工作の追加ペナルティだ」
蒼さんは銀のスプーンでプリンを一口だけすくうと、なんと自分自身の口に含み、そのまま呆然とする私の顎を掬い上げて深く唇を重ねてきた。
「んんっ!? ふ、ぁ……蒼さ……んんっ……」
熱い唇の隙間から、濃厚なカスタードとほろ苦いカラメルの甘みが、蒼さんの舌と体温と一緒に私の口の中へと移されてくる。
お尻に残るじんわりとした熱さと、口いっぱいに広がる背徳的な甘さに、私の頭は真っ白に沸騰し、スマートウォッチが『ブブブッ!』と過去最大級のアラートを鳴らし始めた。
「……ぷはっ、はぁ、はぁ……っ、あ、蒼さん、こんな食べ方、心臓が止まっちゃいます……っ」
「止まりはしないさ。残りのプリンは明日の昼食後に、俺が淹れた無糖のエスプレッソと一緒に半分ずつ食べさせてやる。……さあ、今夜は温かいカモミールミルクを飲んで、俺の腕の中で朝までぐっすり眠る時間だ」
軽々とお姫様抱っこで寝室のキングサイズベッドへ運ばれながら、私は彼の首筋にぎゅっとしがみついた。
甘やかされるのも、叱られるのも、すべてが彼の深い愛情のなかにあって――私たちの半同棲生活は、こうして最高に甘く騒がしく幕を開けたのだった。
コメント
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うわあ、もう今回も甘くて騒がしくて最高でした……! プリンをブロッコリーの下に隠蔽する琴音さんの必死さと、それに全部気づいた上で泳がせてた蒼さん、あまりにも出来すぎてる(笑)。あの「未遂ですから!」って抗議も可愛いんですけど、スマートウォッチで心拍数バレてるの、完全に詰んでるのが面白すぎる。お仕置き五回の後の口移しプリンは、もう反則級に甘い。心臓が足りない……!