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金沢港に程近い石川県庁並びに隠れ家の様な喫茶店があった。その店の名前はスミカグラス鞍月くらつき、18歳の莉子と16歳の蔵之介が初めて待ち合わせをし時を過ごした場所だった。然し乍ら高等学校の生徒の小遣いなど高が知れていた。2人はパンケーキを注文し半分にして口に運んだ。ちょっと背伸びをした砂糖抜きの珈琲は舌にひりひりした。
(ーーー懐かしい)
日本家屋の外観、燻いぶした木材の格子戸を開けると店内は落ち着いた色合いの北欧風に姿を変えた。
(なにも変わらない)
ウォールナットの美しい木目、艶やかな手触りのテーブル、天井からはペンダントライトが暖色系の明かりを灯しアイボリーのカーテンが空調に揺れた。周囲を見渡したが蔵之介の姿は無かった。レジスター後ろの壁掛け時計は13:20を指してした。
(少し早く来ちゃった)
7月3日水曜日
莉子は直也に普段と変わらないキスをして互いに抱き締め合い仕事に送り出した。
「いってらっしゃい!」
「いってきます!」
そして家事を普段より手早く済ませ、慌てて出掛ける支度に取り掛かった。姿見の前でなるべく若く見える服を選んだ。
(これじゃない、これもーーー違う!)
お陰でベッドの上は試着して脱ぎ散らかしたブラウスやスカート、ワンピースで混沌としていた。
(これで良いか)
女性らしい装いは昼下がりの待ち合わせには不粋だと考え、ジーンズに白いシャツを羽織り長い髪をひとつに束ねてブルーグレーのリボンを結んだ。待ち合わせの場所は郊外、駐車場があるので車の鍵を握った。エンジンボタンを押しサイドブレーキを解除する、莉子の心の中でなにかが解き放たれた。
そして莉子は2人で座ったウンベラータ観葉植物の隣のテーブルを選んだ。大きな窓枠いっぱいのガラスからはやや西に傾いた日差しが降り注いだ。
「ご注文はお決まりでしょうか」
目の前にレモンの輪切りが浮かんだグラスが置かれ、おしぼりがセッティングされた。莉子はメニュー表を広げて見たが「待ち合わせなので」とオーダーを一旦断った。跳ねる心音を落ち着かせる為に文庫本を開いたが文字が頭の中を素通りした。
カランカラン
扉が開く音で目を上げたがスタッフがランチタイムの看板を下げる所だった。安堵の息が漏れたがその背後に右脚を引き摺る男性の姿が見えた。長髪を後ろで結え黒い眼鏡を掛け黒いTシャツを着てジーンズを履いていた。
(蔵之介)
視力が落ちたのだろうか、眼鏡を掛けた蔵之介は別人に見えた。莉子が椅子から立ち上がると軽い会釈をした彼は一歩、また一歩と近付いて来た。脚が震え目頭が熱くなった。
「待った?」
「ちょっとだけ」
「バスに乗り遅れて、ごめんね」
「私が早く来すぎちゃっただけだから」
蔵之介が右脚を伸ばして椅子の背にもたれ掛かるとレモンの輪切りが浮かぶグラスがテーブルに置かれた。
「ご注文はお決まりでしょうか」
「莉子さん、パンケーキで良いですか」
「パンケーキ、あ、うん」
「じゃあ、パンケーキをふたつ」
35歳の莉子と33歳の蔵之介はそれぞれのパンケーキを注文した。
「お飲み物は」
「この、工芸茶を下さい」
「かしこまりました」
「工芸茶?」
「ティーポットの中で花が開くんだよ、ジャスミン茶好きだよね?」
「ジャスミン茶、うん」
蔵之介は17年前の事を鮮明に記憶していた。
「お待たせいたしました」
BLOOMING TEAブルーミングティー工芸茶はガラスのティーポットの中でマリーゴールドに似た黄色い花弁を開き始めた。
「綺麗、初めて見た」
「金花彩彩きんかさいさいって言うんだよ」
「ーーーそうなんだ」
蔵之介はこのジャスミンティーを他の女性と飲んだ事がある様子だった。莉子は自分が結婚している事すら忘れその相手に嫉妬した。
黄色い花弁がティーポットに咲きジャスミン茶が香り立つ。湯気の上がるパンケーキ、メレンゲの様な生クリームに蜂蜜を垂らしていると蔵之介がおもむろに黒い眼鏡を外した。
(蔵之介だ)
年齢を重ねてはいるがその面影に胸が熱くなった。
「なに、そんなに僕変わった?」
「それはもう大人だし」
「33歳だよ、驚いちゃうよね」
「私も変わったわ、もうおばさんって呼ばれるのよ」
「誰に」
「家の前を通る小学生が「おばさんおはよう」って言うのよ」
「礼儀正しい子だね」
ガラスのティーカップを持つ手に蔵之介の視線が絡んだ。
「莉子さん」
「なに」
「僕、莉子さんの事がずっと好きでした」
店の騒めきが消えた。
「蔵之介、私結婚しているのよ」
「知っています」
莉子は蔵之介の視線から左手の薬指をさり気無く隠した。
「僕、知っていて来たんです」
蔵之介はフリーマーケットで莉子の左の薬指にプラチナの指輪を見付け声を掛ける事を躊躇った。
莉子はその言葉の意味が分からなかった。いや、正確には分からない振りをしてみせた。そして気不味さを誤魔化す様に言葉を続けた。
「やだなぁ、気が付いてたんだ」
「うん」
「結婚して9年になるの。9年目は陶器婚って言うんだって。それでお祝いにアンティークのティーカップが欲しくてマーケットに行ったの。あのティーカップ、物凄く高いメーカー品で驚いちゃった。うーーんでも、もっと驚いたのは蔵之介が居た事かな!髪の毛も伸ばしてて全然雰囲気がーーー」
蔵之介はテーブルに身を乗り出して莉子を凝視した。
「全然分からなかった?」
一瞬の間が2人を近付けた。
「ーーー分かった、すぐに蔵之介だって分かった」
「僕も莉子さんだって分かったよ」
「髪も伸びておばさんになったのに?服の趣味だって違うわ」
蔵之介は指を伸ばすと莉子の額に触れた。
「ーーーあ」
瞬間、額の一点に神経が集中し甘い痺れが全身へと広がった。
「これはあの時の傷なんだね」
「う、うん。そうなの」
「知らなかった、ごめんね」
「そんな、謝らないでよ!蔵之介のせいじゃないわ!」
互いの瞳に新聞配達のバイクに照らし出された瞬間が映った。
「僕が莉子さんを連れ出したからだ」
「私が蔵之介に会いに行ったからよ」
額から離れた蔵之介の手は静かに莉子のプラチナの指輪を覆い隠した。
「莉子、会いたかった」
17年前と変わらぬその呼び名に莉子の頬を涙が伝い落ちた。
「私も会いたかった」
2人の重なり合った手は熱く身体の血流が激しく渦巻いた。
そして窓の外の駐車場を見た蔵之介の言葉に息が詰まった。
「行きたい所があるんだ」
「ーーーえ」
「莉子は車で来たの?」
「うん」
「乗せて行って」
何処に行くのだろう、莉子は戸惑いを隠せなかったが無意識に頷いていた。それじゃ行こうと蔵之介は手慣れた仕草で伝票を取るとウォレットチェーンを弄まさぐりながらレジスターに向かいクレジットカードを手渡していた。
(もう大人なんだね)
以前はテーブルで小銭を出し合い莉子が伝票を持ち蔵之介がレジスターのトレーに硬貨を並べた。400円、500円、600円、50円、5円とぎこちなく数えた。あの頃の2人はもう居ない。
「お待たせ」
「ありがとう、ご馳走様」
「どういたしまして」
「美味しかったね」
「うん」
ところが蔵之介は駐車場に停まっていたパールピンクの軽自動車を見て真剣な顔で驚いた。
「莉子、本当に運転出来るんだ」
「出来るわよ」
「運動音痴だったのに」
「うるさいわね」
文庫本を開いてばかりの莉子の運動はからきしだった。3年C組と1年A組の体育の時間割が重なった時、グラウンドで高跳びが出来ずバーと一緒にマットに沈む莉子を長距離走の蔵之介が腹を抱えて笑っていた。
「それではお願いします」
「かしこまりました」
シートベルトのタングプレートをはめた莉子はハンドルを握りタクシードライバーの真似事をした。
「お客様、どちらまで?」
「金石港までお願いします」
「ーーーえ」
「金石港のフェリーターミナルまでお願いします」
「蔵之介?」
蔵之介はあの夜をもう一度やり直したいと言って微笑んだ。
「あの、あの道を通るの?」
「そうだよ」
「あの交差点を通るの?」
「そうだよ」
ハンドルを握った手のひらに汗が滲んだ。莉子は高等学校以来、事故の瞬間を思い出すかもしれないという恐怖心から金石方面に近寄る事は無かった。然し乍ら蔵之介は敢えてその場所に行きたいと言った。
「怖いの?」
「少し、怖いよ」
「大丈夫だよ、自動車だから」
「だからって」
「信号があるから大丈夫だよ」
莉子はエンジンのスタートボタンを押した。