テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
雨琉は、その日の稽古が終わっても家へは戻らなかった。
沖の方へと視線を向け、ただ黙って海を眺めていた。
波は静かに寄せては返す。
その単調な音を聞きながら、ふと思う。
――いっそ、このまま飛び込んでしまえたら。
生きることさえ、重荷になっていた。
ふと家の方を振り返る。
薄暗い窓辺に、紫色の影が揺れていた。
妹・瑠月が丹精込めて育てているマツムシソウの花だ。
可憐で、涼やかで、風に揺れる姿はどこまでも美しい。
だが雨琉の胸には、苦いものしか残らなかった。
瑠月は趣味を奪われてもいない。
自分ほど厳しい稽古を課されてもいない。
それなのに、空手道の腕は目覚ましく伸びている。
一時は、本気で追い越されたのではないかと不安になったほどだ。
最近では、樽雨が二人を比べることも増えた。
――そんなに瑠月がいいなら、俺なんかいらないだろ。
――あいつに継がせればいい。
――いっそ、俺なんて……消してくれ。
そこまで思い詰めていた。
その時だった。
「ねえ、大丈夫? もう夜になっちゃうよ?」
軽やかな声が、背後から降ってくる。
今の心を逆撫でするような明るさだった。
顔を上げると、見知らぬ少年が立っていた。
透明な空気をまといながら、静かに微笑んでいる。
「何か、あったんでしょ。…私に、話してみてくれないかな?」
声は澄んでいて、不思議と耳に残る。
どこか怖い。
だがなぜか、拒めなかった。
雨琉は、気づけばすべてを話していた。
誰にも相談したことはなかった。
言葉にすることさえ、してこなかった。
ただ溜め続けて、押し殺して、心はもう限界だった。
話し終えたとき、胸の奥に、かすかな解放感が広がる。
初めて味わう感覚だった。
「大変だったね」
少年は頷く。
本心かどうかは分からない声音で。
やがて、少年は言った。
「助けてあげようか」
雨琉の視線が鋭くなる。
「君の地獄から解放して、新しい人生を歩ませてあげる」
あまりにも非現実的だった。
(そんな簡単にできたら苦労しねえよ)
心の中で吐き捨てる。
「……はは、確かにそうだね?」
少年が笑う。
「……っ!?」
「言い忘れてた。私は人の心が読めるんだ」
背筋が凍る。
「いわば“予言者”みたいなものさ。未来を少し、動かすこともできる」
透明だった空気が、急に重くなる。
「君には素質がある。新しい地へ移してあげよう」
「……本当か?」
「うん。本当」
だが、少年は続けた。
「ただでとはいかない。代わりに試練を与える」
空気が凍る。
「三年後、アリアハンから旅立つ勇者と出会え。そして共に世界を救え」
鼓動が大きく鳴った。
――そんなこと、できるわけ……
言いかけた瞬間。
「大丈夫。君は武闘家として戦える」
「今よりも重い道になる可能性は高い。でも、今の生活からは確実に抜け出せる」
重い道。
だが、その言葉に、雨琉の心は逆に静まった。
逃げたいのではない。
戦いたかったのだ。
「……本望だ」
はっきりと、言った。
「誰かを助けるために生きたい。守るために戦いたい」
「苦しんでもいい。命を落としても構わない」
「……どうか、受け入れてくれ」
その瞳は、これまでで一番澄んでいた。
少年は小さく笑う。
「分かった。受け入れよう」
姿が淡くなり始める。
「じゃあ、頑張ってね。黒鋼雨琉」
消えかけたその瞬間、少年は振り向いた。
「ああ、そうそう。ひとつだけ」
「自分で蒔いた種は、自分で消してね」
その言葉を残し、少年は夜の中へ溶けていった。
海風だけが、そこに残っていた。
そして雨琉は、何かを決意したのか、初めて海に背を向けた。
翌朝。
重い空気の中、村長が村人全員を広場へ集めた。
ざわめきが広がるなか、低く震える声で告げる。
「近くの洞窟に、“やまたのおろち”が棲みついた。」
その名が落ちた瞬間、空気が凍りつく。
「いずれ、我らは喰われるだろう。抗う力は、我らにはない。」
誰も反論できない。
ただ、俯くしかなかった。
「だが――我らがヒミコ様は仰せになった。」
村長は一度、唾を飲み込む。
「『若い女性を生贄として差し出せ』と。それが、この国を守る唯一の道だと。」
どよめきが起こる。
悲鳴を押し殺す音。
誰かのすすり泣き。
「よって本日より、定期的に若い娘を生贄とし、儀式を執り行う。……肝に銘じよ。」
宣告だった。
その報は瞬く間に国中へ広がり、混乱は広がっていく。
誰の家にも“その可能性”がある。
樽雨が、母が、琉火が――
ゆっくりと瑠月を見る。
視線が、突き刺さる。
瑠月は青ざめ、肩を震わせていた。
小さく、息を詰める音が聞こえる。
言葉はいらなかった。
若く、年頃の娘。
条件は、揃いすぎていた。
――その時。
雨琉は、何を思ったのだろうか。
これが、自分を家から解き放つ道になると、理解したのか。
それとも。
これは、自分を救うために用意された運命だと、悟ったのか。
『三年後、勇者と出会い、世界を救え。』
あの少年の言葉が、脳裏をよぎる。
やまたのおろち。
いずれ――自分が倒す存在。
“勇者”と共に。
広場のざわめきの中で、雨琉だけが、静かに目を伏せていた。
運命は、もう動き始めている。
なんか話の内容がわけわからんことになってるのは非常に申し訳ないです。
コメント
1件
次の話が楽しみで夜も眠れないですッ……