Yellow
「んっ、けほっ…けほ」
軽く咳き込んだ弾みで、胸に痛みが走る。ああ、これから大きな発作にならなければいいんだけど。
そんなことを願いながら、道端に寄ってしゃがむ。
道行く人は皆、気にする素振りもなく通り過ぎていく。たまにわずかな視線を感じるけど、何種類も聞こえる足音はどれも止まることはなかった。
病院から乗ってきたバスを降り、自宅へ向かう短い道。これを歩けなくなる日も、近いかもしれない。
俺はポケットから頓服薬を取り出して飲む。
今や、薬だけが俺の命をどうにか繋いでくれている唯一のものだ。
呼吸を整えてから立ち上がり、また歩き出そうとすると、突然視界がぐらついた。
ふっと意識が遠のく感覚に襲われた直後、
「おっと、危ない」
誰かの腕の中に抱かれていた。
「あ……」
俺は呆気にとられて、その人を見上げる。俺よりほんの少し背の高い男性だった。丸い銀縁眼鏡が目に留まる。
「…すいません。ふらっとするのに気づいて、とっさに」
「ありがとう、ございます」
いきなり、しかも同性に抱かれてしまったという羞恥心で、顔が赤くなるのがわかる。
それは眼鏡の彼も同じだったようで、すぐに手を離した。
会釈して踵を返そうとしたけど、やや低い彼の声に呼び止められる。
「あの、良かったらうちの店でコーヒー飲んでいきませんか」
コーヒー、という場違いな響き。うちの店というのを聞くとどうやらカフェでも経営しているのか。
「というと…」
「『喫茶ピクシス』。すぐそこです」
彼は言うなり、背中を向けて歩き出してしまう。俺も慌てて、心臓のあたりを押さえながらついていった。
「そんな、お礼をしたいのは俺のほうなのに。どうしてですか」
俺が尋ねると、彼は切れ長で知的な瞳を向けてくる。
「そのマークが見えたので…。うちは、病気を持つ人のための場所なんです」
え、と思わず声が出た。確かに俺のバッグには、赤いヘルプマークをつけている。持病である拡張型心筋症のことを記したもの。
俺は、小さい頃から患うそいつのせいでずっと入院していた。家にいるよりも長く。
そしてろくな仕事にも就けないまま20代は過ぎようとし、映画監督になるという夢も叶えられる気配のない中で、ついには余命宣告。
もう入院はこりごりだったから、積極的な治療は拒否した。今は痛みを取る処置だけ。
今日も、経過観察というその通院をしてきたところだ。
「あ、コーヒー大丈夫ですか?」
彼が振り返った。今さらだが、飲めなかったらまずついていかない。
「大丈夫ですよ。得意、ってほどでもありませんが」
「それは良かった」
すると、「ここです」と立ち止まった。そこはよく見る小さな美容室のようで、白い建物がこぢんまりとしてかわいらしい。
「おしゃれですね」
お世辞ではなくそう言うと、彼は照れたようにはにかんだ。
ドアには「closed」とのプレートが掛かっている。それを訊くと、「もうすぐ開店時間なんです」と答えた。不思議な営業時間だ。
「どうぞ、お好きな席におかけください」
電気をつけて、彼——マスターはカウンターの奥に入った。
丸椅子に腰を落ち着ける。
「こちらの種類のコーヒーを取り揃えております」と丁寧にメニューを開いて示してくれる。
「あ…じゃあ、カフェラテを」
「かしこまりました」
大人になった今でも、ブラックコーヒーは苦手で飲めない。クリームの優しい甘さが好きで、こういうところではいつもカフェラテかオレだ。
「どうして、病気を持つ人のための喫茶店を開こうと思ったんですか」
初めての客でぶしつけだろうけど、そこが一番気になっていた。普通のカフェじゃなくて、客層を限定して。
「僕、あと5か月くらいで死ぬんです」
「え」
意外な言葉だった。いや、意外だけどそんなに驚かない。だって俺の余命のほうが短いから。
「先天性心疾患で、心不全が進んでて。でも、昔からの夢で喫茶店のマスターになることを諦めきれなくて。それでせっかくなら、同じ境遇の人のための場を作ろうと思ったんです」
とても優しい人なんだな。俺は自然と頬が緩む。
やがて出されたカフェラテは、今まで飲んだどれよりも甘くて、まろやかだった。
「出会えて…良かった」
このカフェラテにだろうか。それともマスターにだろうか。
俺ですら、言ったその真意はわからなかった。
続く
コメント
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外は激寒だけど、このお話でいっつも心がめちゃあったまってるよ…‼️ 🆕アイコンのネコちゃんも可愛い✨ネコ好き…??