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出汁の優しいホカホカのうどんは、天莉の疲れ切った心を癒してくれた。
恐らく弱った天莉の胃腸に配慮してくれたのだろう。
具材はとろりとした半熟の温泉卵と、ネギ、それからくたくたに柔らかく煮込まれたニンジン、そして白菜のみで。
お腹に堪えそうな揚げ物や肉類は一切入っていなかった。
尽が、婚姻届が机上に置かれたままのリビングから移動して、ダイニングの食卓上に食事の支度を整えてくれたのも天莉の心を解きほぐす一助になったと思う。
あれを目の端にとらえながらの食事は、きっとしんどかったから。
ふと対面に座る尽のうどんを見た天莉は、別に自分に付き合わなくても良かろうに、天莉と同じうどんを頼んでいたことにちょっとだけ驚かされて。
そんな天莉からの視線に気付いた尽が、「同じものを食べた方が色々共有出来て楽しいだろう?」と微笑んだ。
食卓という物理的なリーチを間に挟んでいる安心感も手伝ってか、尽のその笑顔にほわりと胸の奥が温かくなった天莉だ。
考えてみれば、横野博視という男はそういう配慮の全くない人だった。
いつも天莉を置き去りに好きなものをさっさと頼んで、下手したら天莉のものまで何の確認も無しに勝手に決めて「俺、こっちも食いたいから来たら食わせて?」というようなタイプだった。
きっと、今目の前で「飲み物は水しかないんだがそれで大丈夫か?」と聞いてくれている尽は、そういうことはしないんじゃないかなと思って。
尽からのとんでもない提案でひるんでいた天莉だったけれど、だからといって尽はそのあと天莉に変に詰め寄るようなこともなく、穏やかに時間が過ぎた。
***
食事後、せめて水を飲むのに使ったグラスぐらいは片付けたいと思った天莉だったけれど、「倒れられたら敵わないからね」と制されて、代わりにキッチンを抜けた先の出入口を通って、通路を右手に曲がったところにある一室へ案内された。
「今夜はとりあえずここで寝るといい。ゲストルームのひとつだから自由に使ってくれて構わないからね」
食後はてっきり婚姻届があるリビングに連れ戻されて、先程の話の続きを詰められると思っていた天莉は、ちょっぴり拍子抜けして。
なおかつ〝ゲストルーム〟という言葉に一瞬耳を疑ってしまった。
「あ、あの……」
さっきの口振りからすると、婚姻届に無理矢理サインをさせられて……今夜は尽との共寝を強要されるとばかり思っていたのに。
「――ん? この部屋じゃ気に入らない? この通り内側からちゃんと鍵も掛けられるし、俺の寝室の隣とは言え、それなりに安心して眠れると思うんだが」
――もちろん、マスターキーはあるけれど、さすがに緊急時でもない限り天莉の許可なしにそれを使って部屋に押し入ったりはしないよ?と付け加えられて、ククッと笑われてしまった。
「どうしてもイヤなら他にあと三部屋あるし……そのどこかに変更することは可能だが」
そこまで言われてしまっては、自分が意識し過ぎているみたいで逆に恥ずかしいではないか。
天莉はうつむきがちに「ここで大丈夫です」と小声でつぶやいた。
天莉が通されたゲストルームは、ホテルのシングルルームよりちょっぴり広いかな?と言った雰囲気の畳二十五畳ちょっとの部屋で。
壁際にスタンド付きのライティングテーブルと椅子。
その隣にセミダブルの大きなベッド。
ベッドの足元側の壁が作り付けの棚になっていて、天莉の家のテレビよりはるかに大きな七五インチの液晶テレビが置かれていた。
それとは別に天莉のアパートのものと同じくらいの大きさのクローゼットがあって。
ゲストルームと呼ばれているけれど、普通の寝室と大差ない様に思えてしまった。
その立派さに気圧されて、天莉は逆に色々冷静に考えてしまう。
そもそも泊まる気で来ているわけではないので、天莉の荷物は仕事に持って行っていたA4サイズ相当のトートバッグひとつ切り。
化粧直しのためのミニポーチは入っているけれど、メイクオフのグッズや、スキンケア用品まではさすがに持ち歩いていない。
(お風呂入りたいし、下着だって替えたいな? 服だってこのままじゃ着替えられないよね? 明日同じ服で出社するのは絶対イヤだ。フラれ女な上にそんなことしたら、ますます惨めになっちゃいそうだもん。身体も大分回復したし、家に帰らせて下さいってお願いするの、ありかな?)
久々にちゃんと食事を摂ったからだろうか。
さっきまでのような極端なふらつきはない。
これなら家に帰らせてもらっても、ひとりで問題なく過ごせそうな気がする。
***
「天莉」
立派な部屋を宛がわれたものの、アレコレ思いを馳せていた結果、ぼんやり立ち尽くしたままでいたらすぐ背後の扉がノックされた。
尽からは施錠できると聞かされていたけれど、当然まだ鍵なんて掛けていなかった天莉だ。
突然のノック音にビクッと肩を跳ねさせて。
でも服を脱いだり、だらしない格好をしているわけではなかったから。
すぐにドアを開けてくれて構わないと言う意志を込めて「はいっ、どうぞ」と返したのだけれど。
しばらく待ってみても何の動きもない。
(――あれ?)
不審に思って天莉から恐る恐るドアを開けてみると、どうやら尽は尽で、中から天莉が扉を開けてくれるのを待ってくれていたらしい。
自分の家とは言え、人に貸した部屋を勝手に開けるのはマナー違反だと心得ているらしい紳士的な尽の様子に、天莉は高嶺尽という男の育ちの良さを改めて再認識させられて。
それと同時。
ほぼ無意識に、(博視だったらきっと、ノックもなしに開けちゃってただろうな)と、またしても元カレとの差を考えている自分に気が付いた。
(博視のことはいい加減忘れなきゃ)
尽と比べると『どうなの?』と言うところばかりが目に付くようで、天莉は今更ながらあんな人とよく五年も一緒にいられたなとか思ってしまった。
そんな相手にあんなフラれ方をしたんだと思ったら、何だか無性にモヤモヤしてしまう。
「風呂の湯張りをしている間、近所のコンビニへキミの泊まりに必要なものをそろえに行こうと思うんだが、体調はどうかね? もし、まだしんどいようなら俺が勝手に選んで来るが……。下着も必要だろうし、自分で選んだ方がキミも心地良いんじゃないかと思ってね」
言われて、これはチャンスかも知れないと思ってしまった天莉だ。
「あ、あの……そのことなんですが……お陰様で随分調子も良くなりましたし……このまま私、家に帰ろうかと思……」
「それは却下だよ、天莉」
だけど、言葉半ばですぐさま拒否されてしまった。
「食事、さっきは俺と一緒にだったから食えたようだが、一人にしたらまた食わなくなるだろう? 悪いが、しばらくの間は俺の監視下に置かせてもらうつもりだ」
言われて、しばらくの間っていつまで?と思ってしまった天莉だ。
「あ、あのっ、しばらくって……」
「もちろん俺が大丈夫だと思うまで、だが? 何か問題でも?」
つまりは先が見えない上に、尽のさじ加減ひとつでずっと帰らせてもらえないかも知れないということではないか。
天莉が『問題しかありませんよ⁉︎』と思ったのも致し方あるまい。
基本目上の言うことには従順な天莉も、さすがにこれには承服できないと思って。
「そんな長居してしまったら着替えとか困ります。それに――」
一晩ならともかく、いつまでとも分からない期間家に帰らせてもらえなかったら、ベランダでプランター栽培をしているミニ菜園とか、部屋に置いてある観葉植物が枯れてしまう。
それを話して眉間にしわを寄せた天莉に、尽は「だったら――」と、とんでもないことを言い出した。
***
「失礼するよ」
「えっ、あ、はいっ。……どうぞっ」
背後から掛けられた言葉に思わずそう返してはみたものの。
(何でこんなことになってるのっ)
天莉の頭の中はそんな疑問で一杯だったりする。
(私のバカっ)
自分のすぐそばに立つ、長身の尽をチラチラと見遣りながら、天莉は数分前の自分を罵らずにはいられない。
***
実は先ほど尽のマンションで、自宅に残している植物たちの心配をした天莉に、尽がこともなげに言ったのだ。
『だったら、それを取りに行くついで、当面の生活必需品も一緒に持ち帰ってくればいいんじゃないか? そうすれば無駄な買い物もしなくて済むし、キミも使い慣れたものを使える。――一石何鳥にもなるとは思わんかね?』
と――。
それは必然的に〝俺のマンションに長期滞在しろ〟と示唆されているのと変わらなかったのだけれど、余りにさらりと告げられたので、そこまで思い至るゆとりがなかった天莉だ。
加えて、無駄が省けると言う文言に過剰反応した天莉は、半ば無意識に「はい」と答えてしまっていた。
だって――。
たかだか一泊のために『これが欲しい!』と希ったわけでもない下着を買うのに、抵抗があったから。
――外食はもったいないしさぁー。俺ん家で天莉が作った飯食おうぜ? お前、結構料理うまいじゃん? な?
――外に出掛けたら疲れるしさ。そもそも無駄に金使っちまうだろ? そういうのって勿体ねぇと思わねぇ? 俺、仕事で外ばっか出てるしさぁ、休みの日ぐらい家でのんびり過ごしてぇんだわ。天莉なら分かってくれるだろ?
お互いフルタイムで働いていたし、決してお金がなかったわけじゃない。
だけど。
付き合い始めて三年が過ぎたころから、ことある毎に『もったいない』を免罪符のように使っては、天莉との外出を避けるようになっていた博視との日々が、天莉にもったいない精神を植え付けるようになっていた。
無駄使いはしたくないと言う観点からだろうか。
料理の材料費などはいつも天莉持ちにさせて、知らん顔をしていた博視だ。
一度だけ、食材費折半の話を持ち掛けたら「細かい女だな」と溜め息をつかれて。以来、何となく言えない空気にされてしまった。
結局自分も食べるんだし、と言い聞かせて自腹で手料理を振る舞い続けていた天莉だ。
家庭菜園を始めたのも、かさばる食費を少しでも浮かせたくて、長ネギの根っこを水につけて育てたことに端を発していたりする。
ここ一年ぐらいはデート回数自体極端に減っていた博視と天莉だ。
博視は相も変わらず忙しさを理由に、たまに会えても疲れてるから、とそんなデートプランばかりを提案してきていた。
今思えば、博視は浮かせた時間とお金を、江根見紗英につぎ込んでいたのかも知れない。
何にせよ、そんな感じで数年間かけて博視に植え付けられた〝無駄遣いは悪〟という価値観が、尽が何気なく告げた〝無駄な買い物〟という言葉に過剰反応して。
結果、思わず「はい」と尽の言葉を肯定してしまっていたのだけれど。
「――ではすぐにでも行こうか」
そんな天莉の内情を知ってか知らずか、善は急げとばかりに尽から急かされ車に乗せられた天莉は、気が付けば道案内もしていないのにアパート前まで辿り着いていた。
『どうして我が家を知っておられるのですか?』なんて愚問は口にするだけ無駄。
恐らく、〝たまたま別件絡みで調査していた〟のなかにその情報も含まれていたんだよね?と、半ば諦めモードで自分に言い聞かせた天莉だ。
天莉自身は気付いていないのだが、こういうすぐにアレコレ諦めてしまうのも、博視との数年間で天莉が身に着けてしまった負の遺産だったりする。
***
「家庭菜園とやらはベランダかな?」
部屋の明かりをつけると同時に尽から問われて、天莉は慌てふためいた。
「あ、はいっ」
尽が立っているだけで、住み慣れた部屋が物凄く狭く感じられてしまうのは気のせいだろうか。
尽のマンションにいる時には感じなかった圧迫感に、改めて彼のマンションは広かったんだなぁとしみじみ思ってしまった天莉だ。
天莉のワンルームマンションは二階にあって、玄関を入るとすぐ仕切り壁が真正面にあるため、くるりと向きを変えてその右手側をすり抜けるようにして部屋の中へ入るようになっている。
そんななので入口が狭く、家財道具は全てベランダに面した掃き出し窓からロープで吊り下げて入れないといけなくて、引っ越しの時は結構大変だった。