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でもそのお陰で、風呂場や脱衣所兼トイレなどが玄関から死角になっているのがとても心地よくて。
天莉が物件選びをした際、ワンルームマンションの間取りは、部屋に入るなりトイレやお風呂場の扉、台所などが丸見えになる物件が多かった。
実は、ここのみそうではなかったのが、この部屋を選んだ決め手だ。
玄関を入ってすぐ右手の壁に、ちょっとした作り付けの棚があったのも良かった。
天莉はそんなに多くない靴たちをそこへ並べることで、狭い玄関ポーチに靴を出さないようにして広さを確保している。
だけど――。
つい今し方、天莉の二十三センチのパンプス横に並べて脱がれた尽の革靴の大きさに釘付けになってしまった天莉だ。
尽の靴は、天莉のものより五センチ以上は大きかったから、玄関ポーチの占有率が半端なくて。
彼の靴が一足あるだけで玄関が物凄く狭く見えることに、天莉は酷く驚かされた。
(博視の靴も大きいと思っていたけれど、きっと高嶺常務のはそれ以上……)
(あ。私ったらまた……)
ことあるごと、無意識に尽と博視を比べてしまっていることに、天莉はちょっとした自己嫌悪を覚えてしまう。
(高嶺常務からの求婚を受けるつもりなんてないくせにこんな……っ。失礼過ぎるでしょっ)
尽のペースに呑まれて、知らず知らずのうちに尽のことを異性として意識し始めていたことが原因なのだが、真面目な天莉がそのことを認めるには時間経過が少な過ぎた。
***
玄関近くの壁には備え付けの姿見があって、出掛けにちらりとファッションチェックが出来るのも天莉は非常に助かっているのだけれど。
ベランダの方へ歩いて行く尽の後ろ姿をチラリと見遣りながら、(高嶺常務がここで全身チェックをしようと思ったら、今みたいに結構鏡から離れなきゃ無理だよね?)とか、(でも離れ過ぎたらよく見えなくなっちゃう?)などとどうでもいいことを思ってしまった天莉だ。
(ちょっ、私ったら何考えてるの!? 常務がここから出社することなんてないんだから関係ないじゃないっ)
すぐさま詮無いことを考えたと頭からその思いを吹き飛ばしたのだけれど。
実は天莉、ここには博視を数えるほどしか呼んだことがない。
その少ない回数の中で、一度だけ泊まったことのある博視が、『姿見が小さすぎて不便じゃね?』と文句を言ったことがあるのだ。
天莉自身はお小言の多かった博視が言ったことなんてそんなにいちいち覚えていないし、実際いまもそのことを思い出したわけではないのだが、頭の端っこに残っていたのかも知れない。
ここへ博視をあまり呼ばなかったのだって、IHクッキングヒーターが一つ口しかないことを、『お前ん家だと料理の効率が悪い』とグチグチ言われたからだ。
実際にはカセットコンロや電子レンジを併用したり、予め作り置きしていた常備菜を使ったりして博視に不便な思いをさせたことはなかったはずなのだが、今思えば、博視はもっともらしい理由を付けて天莉の家まで出向くのが面倒臭かっただけなのかも知れない。
博視が天莉をデートに誘う時は、基本食事も作って欲しいと強請るのがセットだったので、二つ口のガスコンロがある博視の家に、自宅である程度食べられる形にした料理を持って赴くのがパターン化していた。
(お惣菜を取り分けて運んでたタッパー、もうあんなに要らないよね。……落ち着いたら捨てなきゃ)
食器棚の大半を占めているタッパー容器が視界の端に入って、じわりと瞳に涙の膜が張る。
料理を作るのはもちろん、それを持って遊びに行くのもそれほど苦ではなかったけれど、考えてみたらここ一年くらいは、博視から「有難う」も「美味しいよ」の言葉ももらえていなかったことを思い出した天莉だ。
付き合い始めの数年は一緒に出掛けることも、ついでに外食して帰ることも割と多かった博視とのデートだけれど、天莉が作った弁当を持ってピクニックへ行ったこともある。
何かを口に放り込むたび『美味い!』と言ってくれたり、差し出した弁当を笑顔で受け取って『わざわざ作って来てくれてサンキューな』とか労ってくれていたのはいつが最後だっただろう。
(博視、江根見さんとはいつぐらいからお付き合いしてたのかな)
増えたタッパーの数だけ、博視が紗英との逢瀬を重ねていた気がして、ギューッと胸の奥が締め付けられた天莉だ。
「――なぁ天莉。この土だけの鉢は何だい?」
ふと仄暗い思いに捕らわれてポロリと涙を零した天莉に、尽から声がかかる。
尽がベランダからヒョコッと顔を覗かせたのを見て、慌てて顔を伏せて涙をそで口で拭うと、天莉はベランダへ急いだ。
顔をうつむけがちにしたまま近付いた天莉に、尽が深めの鉢を指さすから。
「ああ、それは……芽が出たジャガイモがもったいなくて……植え付けてみたんです」
博視に何か作るつもりで大きな袋で買ったジャガイモ。
日が当たらないよう暗くして保管していたけれど、残り二個と言う段になって芽吹かせてしまった。
こんなことなら大盤振る舞いで沢山使っておけば良かったと思ったけれど、作ったところで食べる宛がなかったかも知れない。
そんなことを思い出して。
声を震わせないよう気を付けながら、「うまくいけば百日くらいで収穫出来るはずです」と説明したら、興味深そうに吐息を落とされた。
「それは楽しみだな」
何でもないことのようにさらりと言われて、つい「はい、楽しみです」と答えたら、ククッと笑われて。
そこで初めて、百日後にも一緒にいることを暗に仄めかされていたんだと気付いた天莉だ。
「あっ」とつぶやいて思わず顔を上げたら、涙に濡れた目元に気付かれたんだろうか。
尽がそっと天莉を腕の中に抱き締めてきた。
「あ、あの……っ」
そのまま優しく背中をポンポンと撫でられるのが照れくさくて、わけが分からない。
こんなに簡単にお付き合いもしていない男性に気を許してはいけないと思うのに、尽から伝わってくる温もりと、鼻腔をくすぐる彼の甘い香りが心地よくて、ついこのまま甘えてしまいたくなって。
ギュッと身体を縮こまらせて、尽の腕を振り解き切れずに逡巡していたら、「――収穫は五月下旬ごろか。俺は根菜の味噌汁が好きなんだけどね、作ってくれるかい?」と嬉し気に問われて。
胸に顔を押し当てられているから、尽の低い声が鼓膜だけではなく肌にも振動で伝わってくる。
その甘やかな声音に、グッと言葉に詰まってしまった天莉だ。
幸いベランダは部屋から漏れ出るシーリングライトの明かりのみを光源にしていて、部屋の中ほど明々としていない。
今、天莉は尽に抱かれる形で部屋を背にしているので、余計でも表情が読み取りにくいはずだ。
今夜は新月に近くて、冴え冴えとした冬の空気のなか、星々がいつもよりクッキリ見えている。
それらを確認した天莉は、尽の胸元についた手にほんの少しだけ力を込めて、彼との間に隙間をあけた。
そのまま間近から尽を見上げて、「げ、元気になれたら……」と言葉を紡ぎ始める。
「ん?」
「あの……そこまで待って頂かなくても……。わ、私の体調が回復したら……。ご迷惑をお掛けしたお詫びにご飯をお作りします」
百日後のことなんて分からない。
そもそも博視だって、付き合い始めて数年はすごく優しかったのだ。
ここ一年ちょっとの酷い仕打ちで、幸せだった頃の記憶が塗り潰せたら楽になれるのに。
楽しかった頃の、天莉のことを大切にしてくれていた頃の博視との思い出も馬鹿みたいに忘れられないから辛い。
そう。
それこそ良い思い出がひとつもない相手だったなら、別れを切り出されたことが……。
別の女性に乗り換えられて捨てられてしまった事実が……。
こんなにショックじゃなかったはずで――。
(高嶺常務だって、今はこんなに優しくして下さっているけれど、ずっとそうだとは限らないじゃない)
だったら受けたご恩は早めにお返しして、傷が浅く済むうちに関係を断ち切った方がいい。
先のことなんて考えないに限るのだ。
そもそも高嶺尽ほどの男性が女性にモテないはずがないし、そんな人を好きになってしまったら、天莉はきっとまた女性の影に傷付いて泣くことになる。
利害の一致があるからキミを選んだんだと言ってくれている今現在の尽は、ある意味天莉のことが好きだと愛をささやく男より信頼出来るかも知れない。
ビジネスライクに自分へ結婚を迫ってくれる目の前の美丈夫は、きっと天莉に利用価値がある間は裏切ったりしないだろう。
でも――。
裏を返せば、もっと好条件の相手が出てきたらそちらへ乗り換える可能性も十二分にあるわけだ。
その時、もし自分が尽のことを本気で愛してしまっていたとしたら……。
(また同じような思いをするのはイヤ!)
失恋直後で傷心の身。恋愛に対してすっかり憶病になってしまっている天莉が尽の腕の中。
傷付きたくないという打算から防戦一方。一宿一飯の恩義を返しますと仄めかしたら、尽の表情がわずかに曇った。
「その提案は受け入れられないな」
ややして真剣な顔をして天莉を見下ろしたまま尽がそんなことを言うから。
天莉は心の中を見透かされたのかと思ってドキッとした。
でも――。
「俺はキミに迷惑を掛けられたなんて微塵も思っていない。だから迷惑の詫びと言うなら、そんな手料理、全然嬉しくないんだよ」
続けられた言葉に、思わず瞳を見開いた天莉だ。
「わ、私……」
「どうせ作ってくれるなら、心の底から俺に食わせたいと思ってくれてからにしてくれないか? その方が俺も嬉しい。何せ人から料理を作ってもらうこと自体久々だからね。――天莉には申し訳ないが、俺は結構愛情たっぷりなんてシチュエーションを期待してるんだ」
そう言われた途端、尽を見上げたままの天莉の瞳からポロリと涙がこぼれ落ちて。
天莉はそのことに自分自身驚いてしまう。
「そんな重いものを込めても……いいんですか? 仮初の関係なのに……迷惑じゃないですか?」
「バカだな、そんなのいいに決まってるじゃないか。キミは俺のプロポーズを一体何だと思ってるの? 例え仮初だとしても、俺はキミだけのものになると約束したよね? それは逆も然りなんだけど。まさかとは思うが天莉……。キミは一生俺を愛してくれないつもりかい?」
尽は天莉の頬を伝う涙をそっと親指の腹で拭うと、
「なぁ、天莉。ゆっくりで構わないから。前の男なんかと比べたりせず俺自身を見て評価して? そうしてゆくゆくは……俺をそいつ以上に好きになれよ」
大切な宝物を慈しむみたいに天莉の名を優しく呼んで、天莉の額に触れるだけの柔らかなキスを落とした。
天莉は尽の温もりを感じながら、
『もしもそうなったら……貴方は私を愛してくれるんですか?』
そんな不毛な言葉を必死に呑み込んだ。