テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
私は、箱に手を伸ばさなかった。
配膳台の上の桐箱と、震えるお義母さまの指を、黙って見ていた。
割れば、済む。
家政婦が茶会の前に家宝を割った。粗相の責めは私が負い、お義母さまは悲しい顔をして、茶会を延ばせばいい。叔母さまの赤楽と並べられることも、二度とない。
そして、私が嘘をつくことになる。
割れていないものを割り、落としていないものを落としたと言う。
この家で嘘の証拠を作るのは、いつも私以外の誰かだった。それを、私の手でやることになる。
「……お預かりいたします」
それだけ言って、私は箱を両手で受け取った。
かしこまりました、とは言わなかった。
お義母さまは、それに気づかなかった。気づく余裕がなかったのだと思う。箱が手から離れると、何かに追われるように、厨房を出ていった。
その夜、私は箱を半地下の部屋に置いて、眠らずに朝を待った。
*
七月七日の朝は、薄曇りだった。
六時に起きて、桐箱を茶室へ運んだ。
床の間の脇の、お義母さまが決めた場所に。真田紐の結び目は、ゆうべ受け取ったときのまま、一度もほどいていない。
八時に、お義母さまが茶室に入ってきた。
床の間の脇の箱を見た瞬間、お義母さまの足が止まった。
私は水屋から出て、膝をついた。
「おはようございます、大奥様。曙を、元の場所にお戻ししておきました」
お義母さまは、私を見た。
何か言おうとして、唇が開いた。
その唇から言葉が出る前に、玄関で、車の止まる音がした。
坂上先生が、予定より早く着いたのだった。
*
席入りは、十時だった。
正客に、坂上宗円先生。
白い髭を短く整えた、痩せた老人だった。薄鼠の十徳を着て、膝の上で両手を静かに重ねている。
次客に、多恵子叔母さま。
膝の脇に、紫の風呂敷で包んだ箱を一つ置いていた。
三客と四客に、白樺台の奥様方が二人。
末席に、麗奈が座った。淡い水色の訪問着が、肩のあたりで少し浮いていた。
亭主は、お義母さま。
半東は、私だった。
茶道口の前で膝をつき、一呼吸おいてから、襖を開けた。
お菓子を運ぶ。
青い錦玉羹の中に、金箔の星が散っていた。天の川だった。
坂上先生の前に、菓子器を置いた。
深く頭を下げると、耳の後ろでピンが一本、外れた感触がした。髪が一筋、頬に落ちる。
顔を上げる前に、指で髪を押さえ、耳の後ろへ戻した。
点前座で、お義母さまの手が止まっていた。
帛紗を持ったまま、一拍だけ。
それから、何事もなかったように、また動きはじめた。
*
濃茶は、曙で点てられた。
お義母さまの手つきは、少しも乱れていなかった。
茶筅の音が、茶室の中に静かに満ちた。迷いのない、師範の音だった。
私が茶碗を受け取り、坂上先生の前へ運ぶ。
正面を、客のほうへ。少しだけ、内側へ寄せて。
坂上先生は茶碗を手に取り、一口含み、目を閉じた。
「結構な、お服加減です」
それから、茶碗を両手で包むように持ち直した。
指先が、胴を一度、ゆっくりとなぞった。
先生の眉が、ほんのわずかに動いた。
次客の叔母さまが茶碗を受け、奥様方へ回り、最後に麗奈へ渡った。
麗奈は茶碗の重さに戸惑ったように、両手で抱えこんで飲んだ。
*
「貴和子さん」
点前が終わり、道具の拝見に移ったときだった。
叔母さまが、膝の脇の紫の風呂敷を解いた。
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
「せっかくの七夕ですもの。坂上先生に、これも拝見していただきたいの」
桐箱から、赤い茶碗が一つ、取り出された。
奥様方が、小さく息をのんだ。
叔母さまの赤楽は、曙と並べて置かれた。
形は、そっくりだった。口縁の波も、胴の膨らみも。
けれど、私には、離れていてもわかった。
赤の奥の、沈んだ夕方の光。神田の奥座敷で、私の手のひらに吸いついてきた茶碗だった。
「双子の赤楽。面白いでしょう?」
叔母さまは、にっこりと笑った。
お義母さまは、点前座に座ったまま動かなかった。
膝の上の手が、帛紗を握りしめていた。
坂上先生は、何も言わなかった。
まず、曙を手に取った。
両手で持ち、重さを確かめるように、わずかに上下させる。それから、ゆっくりと裏返した。高台を、長いあいだ見ていた。
元に戻した。
次に、叔母さまの赤楽を手に取った。
持ち上げた瞬間、先生の目が、細くなった。
裏返す。高台の脇の、細い金の線。
先生の指が、その線の上で止まった。
茶室の中で、誰も息をしていなかった。
風炉の釜の湯が、しゅん、と小さく鳴った。
「御影さん」
坂上先生が、静かに顔を上げた。
お義母さまのほうを、まっすぐに見ていた。
「この金継ぎは、私が宗一郎さんと一緒に直したものです」
お義母さまの肩が、かすかに揺れた。
「十年ほど前でしたか。宗一郎さんが稽古の帰りにこれを落として、ひびを入れた。私が職人を紹介して、二人で、金の線の太さまで相談しました。この曲がり方は、私が筆で描いて見せたものです」
先生は、赤楽を白い布の上に戻した。
それから、曙のほうへ、目だけを向けた。
「そちらの碗には、金がありませんね」
「……贋作を掴まされたのは、多恵子さんのほうよ」
お義母さまの声が、茶室に響いた。
甲高く、上ずっていた。この人の、そんな声を、私は三年間で一度も聞いたことがなかった。
「金継ぎなんて、後からいくらでも描けるわ。御影の曙は、ずっと蔵にあったのよ。宗一郎が死んでから、誰も触っていないの」
坂上先生は、何も言い返さなかった。
ただ、静かに、首を横に振った。
一度だけ。
それで、十分だった。
「……あら」
叔母さまが、口元に指を当てた。
「じゃあ、蔵にあったのは、どなたが作ったものなのかしら。瑞雲堂さんは、ちゃんとした出どころからしか買わないお店よ。ねえ、貴和子さん」
お義母さまは、答えなかった。
答えられなかった。
三客の奥様が、扇子で口元を隠した。
四客の奥様は、膝の上の懐紙に目を落とした。叔母さまは、笑みを消して、気の毒そうな顔を作っていた。
末席で、麗奈が唇の端を上げていた。
客たちの目が、点前座から、ゆっくりと離れていった。
師範の手元から、床の間の軸へ。茶碗へ。自分の膝へ。
誰も、お義母さまを見なくなった。
三十年、この茶室の主だった人が、自分の茶室の中で、一人になっていた。
私は、茶道口の脇に控えていた。
膝の上で、手袋の手を重ねていた。
何もしなかった。
何も言わなかった。
私がしたのは、今朝、桐箱を元の場所に戻したことだけだった。
*
客が帰ったあと、水屋で、私は道具を片づけていた。
曙を洗い、布で拭き、仕覆に包む。
重い茶碗だった。それでも、両手で、音を立てずに箱へ納めた。
背中で、衣擦れの音がした。
お義母さまが、水屋の入口に立っていた。
化粧が、汗で少し崩れていた。目の縁が、赤かった。
「なぜ、割らなかったの」
声は、もう上ずっていなかった。
疲れきった、低い声だった。
私は、箱の真田紐を結び終えてから、振り向いた。
「器に、罪はございません」
凛の声で、そう言った。
三年前の冬だった。
稽古の手順を間違えた私に、お義母さまは、手元の茶碗を投げつけた。茶碗は私の肩をかすめて、水屋の柱に当たった。縁が、小さく欠けた。
私は、その茶碗を拾った。
欠けた縁を指でなぞって、言った。器に罪はございません、お義母さま。
あのときのお義母さまは、何も言わずに水屋を出ていった。
その茶碗は、いまも、この水屋の棚の奥にある。
欠けた縁を内側に向けて、ずっとしまわれている。
お義母さまの手から、何かが落ちた。
朱の帛紗だった。
水屋の板の間に、音もなく広がった。
お義母さまは、それを拾わなかった。
老眼鏡の奥の目が、私の顔を見ていた。私の顔の、その向こう側を。
「……澪さんに、そっくりなことを言うのね」
コメント
1件
今日のエピソード、静かに揺さぶられました。茶碗を割らなかった選択、あの場面がもう胸に刺さって。お義母さまが「なぜ割らなかったの」と問うまで、黙って元の場所に戻しただけというのが、主人公の意志の強さと哀しみを感じさせてものすごく響きました。坂上先生の金継ぎの証言で、茶室の空気が変わっていく瞬間の描き方、そして最後の「器に罪はございません」の凛とした台詞。あの一言に、三年分の静かな抗いが詰まっていて、読み終わったあとも余韻がずっと残っています。ああ、面白かった……。