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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
「……恐れ入ります。旅館の女将の、口癖でございました」
私は膝をつき、板の間の帛紗を拾った。
朱の絹は、まだお義母さまの手の温度を残していた。
四つに畳んで、両手で差し出す。
お義母さまは、それを受け取らなかった。
私の手の上の帛紗を、しばらく見下ろしていた。それから黙って背を向け、水屋を出ていった。
足袋の音は、和館の廊下の三枚目の板で、一度だけ鳴った。
*
七夕から、ひと月がたった。
白樺台の坂に、蝉の声が積もるように鳴いている。
茶会の話は、多恵子叔母さまの口から、坂の上の家々へ静かに広がっていった。御影の奥様の曙は、偽物だったんですって。宗円先生の前で。
お義母さまの稽古に通っていた生徒が、二人やめた。
七月の終わりには、三人目から丁寧な手紙が届いた。
曙は、蔵の二階に戻された。
本物は、いまも多恵子叔母さまの家の床の間にあるのだという。
お義母さまは、私に何も言わなかった。
あの水屋の日のことも。澪さん、という名前のことも。
ただ、見ていた。
朝、私が仏壇の花を替えるとき。夕方、和館の廊下を拭くとき。振り向くと、障子の陰や、縁側の籐椅子から、老眼鏡の奥の目がこちらに向いている。
暇を出されることも、なかった。
手元に置いて、見張る。この家の人たちは、親子でやり方がよく似ている。
*
八時。
大階段の踊り場で、柱時計のねじを巻く。
きりきりと、八回。
振り子の裏は、見ない。
二年前からずっと、私はこの時計の文字盤だけを見てきた。
階段の下を、麗奈が通っていった。
「凛さん、私の朝ごはん、まだ?」
付け爪は、また長く戻っていた。
茶会のあと、お義母さまが落ちていくのを見てから、麗奈は少しずつ元気を取り戻していた。撮影の日以来、書斎のソファで寝ていた蒼真も、いつのまにか主寝室へ戻っている。
この家の女主人の椅子が、一つ空いた。
麗奈には、そう見えているのだと思う。
*
八月二日の夕食は、鱸の香草焼きだった。
食堂のテーブルに、蒼真と麗奈、お義母さま、陽翔。
私は壁際に控えて、グラスの水が減るのを見ていた。
麗奈が、ナイフとフォークを置いた。
「あのね、みんなに、報告があるの」
蒼真の腕に、自分の手をのせる。
蒼真は、もう知っている顔で笑っていた。右頬のえくぼが、深くなった。
「赤ちゃんが、できたの」
食堂が、静かになった。
お義母さまの箸が、皿の上で止まっていた。
ほんの一瞬、その目が冷たく細くなるのを、私は見た。
それから、お義母さまは、ゆっくりと箸を置いた。
「……そう。御影の、跡継ぎね」
声が、別人のように柔らかくなっていた。
「体を大事になさい、麗奈さん。重いものは持たないこと。階段も、気をつけて」
「はい、お義母さま」
蒼真が、ワイングラスを持ち上げた。
「八週目なんだって。安定するまで、外には言わないでおこうと思ってる。……陽翔にも、弟か妹ができる。今度こそ、いい家族になるよ」
今度こそ。
三年前の春、この食堂で、同じ言葉を聞いた。
一歳の陽翔を抱いた私に、蒼真は、いい家族になろうと言った。
麗奈は、お腹に手を当てて微笑んだ。
その微笑みが、私のほうへ、ちらりと流れた。
陽翔は、フォークを握ったまま、大人たちの顔を順番に見ていた。
「陽翔くん、お兄ちゃんになるのよ」
麗奈が、甘い声で言った。
「お兄ちゃんなんだから、これからは、いろんなこと我慢できるよね?」
陽翔は、返事をしなかった。
フォークの先の鱸を、じっと見ていた。
*
その日から、陽翔は「お兄ちゃん」になった。
廊下を走ると、「赤ちゃんがびっくりするでしょ」と麗奈に叱られる。
プールに行きたいと言うと、「お兄ちゃんなんだから我慢しろ」と蒼真が新聞から目も上げずに言う。
二日目の朝、麗奈が厨房に来て、鼻に皺を寄せた。
「この甘い匂い、だめ。つわりなの。卵焼き、もう作らないで」
甘酒の卵焼きは、お義母さまの許しで、毎朝陽翔のために焼いていたものだった。
お義母さまは、何も言わなかった。
跡継ぎのお腹のほうが、いまは大事なのだ。
翌朝から、陽翔は厨房の隅の小さな台で、一人で朝ごはんを食べるようになった。
食堂の甘くない匂いから、少し離れて。
私は換気扇を回して、卵焼きを焼いた。
甘い匂いが、食堂へ流れていかないように。
陽翔は、一口食べて、私を見上げた。
「りんさん。ぼく、お兄ちゃんだから、がまんする」
フォークを握る小さな手が、白くなっていた。
ぴょんたは、膝の上ではなく、椅子の背に掛けられていた。
お兄ちゃんは、ぬいぐるみを抱いてごはんを食べない。誰かに、そう言われたのだろう。
私は、何も言えなかった。
家政婦の口から出せる言葉が、一つもなかった。
「……ゆっくり、召し上がってくださいね。坊ちゃん」
凛の声で、それだけ言った。
この子は、四歳で一度ママを失った。
今度は、家の真ん中の席を失おうとしている。それも、まだ生まれてもいない、いるかどうかもわからない子のために。
換気扇の下で、私はフライパンの柄を握りしめていた。
*
いるかどうかも、わからない。
そう思ったのには、理由があった。
二日前、主寝室の洗面所を掃除したとき、ゴミ箱の底に、ティッシュで丸めた小さな包みがあった。
指先でつまむと、中身はすぐにわかった。女なら、誰でも知っている包みだった。
それから、夜中の冷蔵庫。
白ワインのボトルに、私は毎晩、ラベルの端に爪で小さな印をつけている。家政婦の癖だ。減り方で、家の人の夜がわかる。
麗奈が「おめでた」と言った日から、白ワインは毎晩、指一本ぶんずつ減っていた。
蒼真は、赤しか飲まない。
お義母さまは、夜はお茶しか口にしない。
*
夕方、ムギの散歩のあとで、離れに寄った。
縁側に腰を下ろすと、ムギが私の膝に顎をのせた。
榊さんは、麦茶のグラスを二つ持って出てきた。私の分は、氷が少なかった。
「喉を冷やしすぎないように」
それだけ言って、少し離れたところに座る。
私は、包みのことと、白ワインのことを話した。
榊さんは、黙って聞いていた。グラスの水滴が、縁側の板に小さな輪を作った。
「証拠には、ならない」
話し終えると、榊さんは言った。
「包みは、誰のものとも言えない。ワインは、少し飲んだと言われれば終わりだ。……ただ」
「ただ?」
「あなたの目は、そういうところで間違えない」
ムギが、私の膝の上で、鼻を鳴らした。
「坊ちゃんが、厨房で一人でごはんを食べているんです」
言うつもりはなかったのに、口から出ていた。
「お兄ちゃんだから、がまんするって。ぴょんたを、椅子の背中に掛けて」
榊さんは、しばらく何も言わなかった。
それから、グラスを置いた。
「明日の朝、ムギを母屋の勝手口まで連れていきます」
「え?」
「犬と一緒に食べる朝ごはんなら、ぬいぐるみを抱いていても、誰も文句は言わないでしょう。……俺が、散歩の途中で寄ったことにすればいい」
この人は、困っている人の前で、困った顔をしない。
ただ、明日の朝の段取りを決める。
「……ありがとうございます、榊さん」
「礼なら、坊ちゃんに卵焼きを一切れ多く」
榊さんは、眼鏡を指で押し上げた。
「それは、経費では落ちない」
ムギの尻尾が、縁側の板を二度叩いた。
*
その夜、半地下へ下りる前に、私は二階の主寝室へ、洗いたてのタオルを届けにいった。
ノックをすると、ドアが細く開いた。
蒼真は、まだ書斎にいるらしかった。
麗奈はタオルを受け取らずに、廊下へ一歩出てきた。
ローズの香水が、甘く鼻についた。
私の耳元へ、唇を寄せる。
「これからは、私のお世話が最優先。わかった?」
付け爪の先が、私のエプロンの胸元を、とん、と突いた。
「……この子に何かあったら、あんたのせいだから」
コメント
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第31話、まじで胸が締め付けられたよ...😭💔 陽翔くんが「お兄ちゃんだからがまんする」ってぴょんた背中にかけてるシーン、泣くわ。まだ4歳なのに。 凛さんが甘酒卵焼きを換気扇の下で焼き続けるの、その細かい抵抗が涙腺にくる。 そしてワインの減りと包み、榊さんの明日の段取り、もう全部が静かに燃えてる感じがやばい。麗奈の耳元「あんたのせいだから」も鳥肌。続きが気になりすぎる…! 更新待ってます、草原草原さん🔥