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第一話:「夏は、まだ僕らを待っていた」
踏切の警報音は、いつも少しだけ遅れて胸に届く。
音そのものより、音が生む“間”が、心臓を焦らすせいだ。
星見坂(ほしみざか)町。
海と山に挟まれたこの町では、夕方になると風が二種類に分かれる。
山から降りてくる、土と葉の匂いのする風。
海から上がってくる、塩と藻の匂いのする風。
それが、坂の途中でぶつかって、混ざり合って、
この町だけの夏の匂いになる。
僕――**朝倉 恒一(あさくら こういち)**は、その匂いを吸い込むたびに、自分が“戻ってきた”ことを思い知らされる。
高校二年の夏休み初日。
本来なら、世界が少しだけ軽くなる日だ。
なのに僕の足取りは、スニーカーの裏に湿気が貼り付いたみたいに重い。
「……はぁ」
ため息が、熱を持った空気に溶ける。
坂の下に駅が見える。
線路の向こうに、古い商店街。
その向こうに、海。
水平線は青というより、薄いガラスみたいに透明で、遠い。
――この風景が、嫌いなわけじゃない。
むしろ好きだ。
好きだからこそ、胸の奥をちくちく刺す。
「おーい恒一! どこまで黄昏れてんだよ!」
背中に、衝撃。
肩甲骨あたりが「べこん」と鳴った気がする。
「痛っ……! 誰だと思ったら春斗かよ」
振り返ると、笑顔が眩しい男が立っていた。
宮本 春斗(みやもと はると)。
同級生。幼なじみ。僕の人生における“うるさい担当”。
「え? 今のは愛のタックルですけど?」
「愛はもっと優しくしてくれ」
「愛は時に暴力!」
「最低の格言やめろ」
春斗はへへっと笑って、僕の横に並ぶ。
彼は歩くたび、空気を軽くする。本人は自覚がない。
だから、救われる瞬間がある。
「夏休み初日だぞ? どうせ家でゴロゴロしてたら腐るだろ。俺と充実させようぜ!」
「充実=お前の無計画に巻き込まれる、だろ」
「褒め言葉だな!」
ぶれない。
ぶれなさすぎて、逆に尊敬する。
僕たちは坂を下る。
夕暮れの光は、町の輪郭を優しく削っていく。
窓ガラスはオレンジを飲み込み、電柱の影は長く伸びる。
踏切がまた鳴った。
車の列が止まる。
自転車を押す人が足を止める。
犬が一度吠えて、何もなかったように黙る。
その、何でもない日常の中に――
違和感が、すっと差し込んだ。
使われなくなった古いバス停。
錆びた標識。
色褪せた時刻表。
誰も見向きもしない場所。
そこに、女の子が立っていた。
白いワンピース。
黒髪。
裸足。
夕焼けの光を背負って、輪郭が薄く、空の一部みたいに見える。
視界が一瞬だけ、遠近感を失った。
#イケメン
#ロマンス
現実の解像度が落ちて、音が遠のく。
「……なぁ、春斗」
「んー?」
「今、あそこに――」
指を向けた瞬間。
「……え?」
そこには、もう誰もいない。
バス停と、伸びる影だけ。
「……なんだよ。幽霊でも見た?」
春斗が冗談めかして言う。
けれど僕は笑えなかった。
胸の奥が、理由もなく締めつけられている。
「見間違い、かな」
「お前、寝不足じゃね? ほら、目の下に“影”あるもん」
「夕方だからだろ」
「いや、人生の影」
「うるせ」
いつものやり取り。
なのに、どこか噛み合わない。
足を動かすたび、僕の意識はバス停に引っ張られる。
そこに“いた”という感覚だけが、妙に確かだ。
そのとき――
「――やっと、見つけた」
背後。
耳元じゃない。
でも、心臓のすぐ近くで響いたみたいな声。
振り向く。
さっきの女の子が、立っていた。
近い。
驚くほど近い。
僕が一歩下がればぶつかりそうな距離。
「……え」
声が出ない。
喉が固まる。
彼女は僕を見上げる。
瞳の中に夕焼けが映っている。
その目は、泣きそうで、笑いそうで、どっちでもない。
「恒一」
名前を呼ばれた。
ぞくり、と背筋が震えた。
知らない子のはずなのに、名前を呼ばれただけで、胸の奥が勝手に痛む。
「……なんで、僕の名前」
「約束、覚えてる?」
「……約束?」
彼女は少しだけ唇を噛んで、困ったように笑った。
「そっか」
そして、悲しそうに。
「忘れちゃったんだ」
その言葉は、責める声じゃない。
むしろ、自分に言い聞かせるみたいだった。
僕は焦って周囲を見る。
春斗は? 通行人は?
誰か、気づいてないのか?
「春斗!」
春斗は僕の呼びかけに振り向いた。
「なに?」
――彼の視線が、彼女をすり抜けた。
まるで、そこに誰もいないみたいに。
「……え」
背中が冷たくなる。
「どうした? マジで幽霊見たのか?」
春斗は笑ってる。
何も起きていない世界の顔をしている。
彼女は小さく首を振る。
「大丈夫」
僕だけに聞こえる声で言う。
「まだ、あなたにしか見えない」
「……なんで」
「分からない?」
彼女は少しだけ首を傾げる。
子どもみたいな仕草なのに、不思議と似合う。
「あなたが、私を忘れたから」
その一言で、心臓がぎゅっと掴まれた。
意味が分からないのに、否定できない感覚。
「ねえ、恒一」
彼女は、バス停の方を指差した。
「ここ、覚えてる?」
僕は息を呑む。
覚えてる?
こんな場所――
なのに、頭の奥で何かがひっかかる。
古い記憶の糸が、指に絡むみたいに。
踏切が鳴る。
電車が通る。
風が吹く。
その瞬間、彼女の輪郭が揺れた。
光の粒にほどけそうな、危うい揺れ。
「ちょ、待って」
反射的に、僕は手を伸ばした。
指先が触れたのは、
温度のない、夏の空気――
いや。
ほんの一瞬だけ、
冷たい水滴みたいな感触があった。
掴めない。
でも、確かに“触れた”。
「――またね」
彼女はそう言って、笑った。
その笑顔が、胸を壊す。
次の瞬間、彼女は消えていた。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
「恒一?」
春斗が顔を覗き込む。
「大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」
「……平気」
平気なわけがない。
でも、そう言うしかない。
「なんかあったら言えよ。
俺、頼れる幼なじみだからな!」
「その自信、どこから湧くんだよ」
「泉!」
「枯れろ」
春斗が笑う。
いつもの日常が戻る。
だけど僕だけが、戻れない。
夜。
自室の天井は、白いのに暗く見えた。
扇風機の風が肌を撫でる。
その風が、昼間のバス停の匂いを運んでくる気がして、呼吸が浅くなる。
スマホが震えた。
「……?」
通知。
知らない送信元。
でも、番号じゃない。
“名前”でもない。
ただ、空白みたいな表示。
嫌な予感がして、指が一瞬止まった。
それでもタップする。
届いたのは、写真だった。
古い、少し色褪せた写真。
そこには――
小学生の僕がいた。
日焼けした顔。
欠けた前歯。
笑い方が、今よりずっと無邪気だ。
そして、隣に。
あの女の子がいた。
白いワンピースじゃない。
帽子をかぶって、Tシャツに短パン。
子どもらしい格好なのに、目だけが不思議なくらい大人びている。
僕は、彼女の手を握っている。
彼女は、僕の方を見て笑っている。
写真の端に、灯台が写っていた。
場所は、灯台公園。
撮影日時は――
十年前の八月十四日。
「……誰だよ」
声が震える。
知っているはずだ。
僕は彼女の手を握っている。
あんなに近くで笑っている。
大事な瞬間のはずだ。
なのに。
彼女の名前が、どこにもない。
記憶の棚のどこを探しても、
その引き出しだけが抜け落ちている。
まるで、世界がそこだけ空白にしたみたいに。
スマホが、もう一度震えた。
今度は短いメッセージ。
『約束の場所、覚えてる?』
文字を見た瞬間、背中に冷たい汗が流れた。
問いかけの主が誰か、分かってしまったから。
僕は、指を動かす。
『誰?』
送信。
既読はつかない。
返事もない。
代わりに、部屋の空気が少しだけ冷える。
カーテンが、風もないのに揺れた。
窓の外で、どこか遠くの踏切が鳴った。
夜の音は、昼よりも鋭い。
僕は息を止めて、
ゆっくり振り向いた。
――当然、そこには誰もいない。
なのに。
背後に、確かに“気配”が残っている。
今にも消えそうな、
夏の終わりの匂い。
そして、胸の奥で――
何かが小さく、確かに動き出す音がした。
忘れていた夏が。
置き去りにした約束が。
僕の“今”に、手を伸ばしてくる。
第一話・終