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第285話 一人ずつ
【異世界・王国警備局/帰還準備室・夕方】
佐野悠真は、帰還陣の手前で一度だけ深く息を吸った。
昨日までなら、床に描かれた白い線を見ても何のためのものか分からなかっただろう。
だが今は違う。
ここから日本へ帰る。
高瀬直人が実際に通った道を、自分も通る。
「緊張してる?」
ハレルが聞くと、悠真は苦笑した。
「してます。めちゃくちゃ」
「俺もすると思う」
「ハレルさんも帰るんですよね」
「最後にね」
悠真が少し驚いたように見る。
「最後?」
「まだこっちにいる人たちを帰してから。俺とサキとリオは、そのあと」
悠真は一度サキの方を見る。
それから、静かに頷いた。
「そうなんですね」
アデルが帰還陣の反応を確認しながら言う。
「話はあとでもできる。今は本人確認をするぞ」
「はい」
ノノの声がイヤーカフから届く。
『佐野悠真さん。昨日も聞いたけど、もう一度だけ確認するね』
「はい」
『名前は?』
「佐野悠真です」
『出身は?』
「日本です」
『帰りたい場所は?』
悠真は一瞬だけ目を閉じた。
頭に浮かんだのは、自宅の玄関だった。
狭い廊下。
靴箱。
母親が買ってきたまま置いていた傘。
父親が休日になると座っていたリビングの椅子。
どれも、もう同じではないかもしれない。
自分がいなかった時間だけ。
向こうでは進んでいる。
それでも。
「日本に帰りたいです」
声は震えなかった。
ノノが続ける。
『家族のことも確認できてる。ご両親とも生存してるよ』
悠真の喉が動く。
すでに聞いていた話だ。
それでも、帰還直前に改めて聞くと、重さが違った。
「……はい」
『最初は安全のために受入施設へ出る。そのあと、家族と会えるように現実側で準備する』
「お願いします」
表示が切り替わる。
《佐野悠真》
《本人確認・完了》
《現実世界出身》
《家族照合・完了》
《本人意思・帰還》
《受入座標・固定》
最後に。
《最終意思・確認》
悠真がもう一度答えた。
「帰ります」
◆ ◆ ◆
主鍵が淡く光り、続いてアデルの副鍵が応える。
リオの右手首にも弱い光が走ったが、出力は前回よりさらに抑えられていた。
『リオ、二パーセント下げたままでいくよ』
「分かった」
『アデルは前回と同じ。ダミエ、外周は?』
「固定済み」
ダミエの結界が部屋を包む。
セラは目を閉じ、エリウスの案内層へ意識を沈めた。
「前回の残留揺れ、ありません。現実側まで確認します」
サキのスマートフォンではreが白く光り、一本の線が帰還陣の中央へ伸びる。
数秒後。
セラが目を開いた。
「大丈夫です」
《安全》
案内層にも同じ表示が浮かんだ。
『接続開始』
空気の密度が変わる。
帰還陣の向こう側へ、白い壁が薄く重なった。
オルタリンクタワーの受入室。
悠真が息を呑む。
「本当に……向こうだ」
ハレルが横から言う。
「まだ動かないで」
「はい」
同期率が上がっていく。
五十。
六十。
七十。
今回はリオの副鍵も安定している。
前回得た数値を基準に、ノノが最初から負荷を分散させているためだ。
『八十二……八十八……』
セラが案内層を見る。
「途中層なし。経路もずれていません」
『通せるよ』
ハレルが悠真を見る。
「悠真」
「はい」
「ここからは自分で歩いて」
悠真が頷いた。
そして、白い線へ一歩踏み出す。
その足が止まった。
ほんの一瞬だけ。
ハレルは何も言わなかった。
急かさない。
悠真は向こう側の景色を見ていた。
怖いのだ。
帰ることが。
帰れないことだけではなく。
本当に帰ってしまうことも。
数年分の時間が。
現実になって待っている。
悠真は小さく息を吐いた。
「……父さん、老けてるかな」
ハレルは少し笑った。
「たぶん」
「母さんも?」
「たぶん」
悠真も笑った。
ほんの少しだけ。
「じゃあ、確認してきます」
今度は。
自分から前へ進んだ。
◆ ◆ ◆
光が身体を包み、悠真の輪郭が二つの世界へ重なる。
『座標移行、開始』
現実側の反応が上がる。
《物質反応・検出》
《身体構成・一致》
《意識維持》
悠真の姿が少しずつ薄くなり、代わりに向こう側の床へ人影が現れていく。
ハレルは主鍵の光を固定したまま、目を逸らさなかった。
途中で大きな揺れはない。
リオの副鍵も安定。
アデル側も正常。
『九十四……九十七……』
セラが言う。
「出口まで問題ありません」
『九十九……百』
光が収束した。
帰還陣の中央から。
悠真の姿が消える。
数秒後。
現実側から日下部の声が入った。
『佐野悠真さん、固定完了。意識も正常です』
サキがほっと息を吐く。
「よかった……」
ハレルも頷いた。
その直後。
通信の向こうから。
悠真の声が聞こえた。
『ハレルさん』
「何?」
少しだけ鼻をすする音。
『帰ってきました』
「うん」
『ありがとうございます』
ハレルは帰還陣の向こうを見た。
もう姿は見えない。
「家族に会ってきて」
『……はい』
通信が切れる。
◆ ◆ ◆
帰還陣はすぐに閉じられた。
成功したからといって、そのまま次の人間を通すことはしない。
ダミエが結界を一度完全に解除し、アデルが副鍵を確認する。
ノノはリオの腕輪の波形を前回と比較し、セラは案内層の残留揺れを内側から調べた。
二十分。
三十分。
誰もその時間を惜しまなかった。
やがて。
『全部正常』
ノノの声。
『リオの副鍵も悪化なし。残存経路の負荷、基準値まで戻った』
リオが右腕を軽く動かす。
「なら次いけるな」
アデルが見る。
「焦るな」
「焦ってない」
「その言葉を一番信用できないのがお前だ」
リオが眉を寄せた。
ハレルが少し笑う。
「まあ、今日は副鍵使おうとしてないし」
「だろ」
「だからといって褒めないぞ」
「別にいらない」
少しだけ空気が緩んだ。
だが次の名前が表示されると
全員の表情が戻った。
《三浦啓介》
◆ ◆ ◆
【王国警備局/帰還準備室・夜】
三浦は。
例の紙を持って入ってきた。
六。
十七。
二十三。
九。
四十二。
紙の端は、何度も折り畳まれたせいで柔らかくなっている。
ハレルがそれを見る。
「持っていくんですか」
「はい」
三浦は少し恥ずかしそうに笑った。
「もう覚えてますけどね」
「でも持っていった方がいいと思います」
「そうですね」
帰還陣の中央へ進む前に三浦は紙を開いた。
「六時十七分」
最初の数字。
「駅の改札を通った時間」
次。
「二十三番のロッカー」
九。
「住所の一部」
そして。
四十二。
三浦の指が止まった。
「母の病室」
ハレルは何も言わない。
三浦が続けた。
「向こうへ帰っても、母がまだそこにいるわけじゃない。それは分かってます」
転移した時から時間は過ぎている。
病室も。
家も。
人も。
変わっている。
「でも、俺が忘れないようにずっと書いてた数字だから」
紙を畳む。
「最後まで、自分で確かめたい」
ハレルが頷いた。
「うん」
アデルが横から言う。
「なら、確認を始めるぞ」
◆ ◆ ◆
三浦の帰還は
悠真より静かに進んだ。
名前。
三浦啓介。
出身。
現実世界。
本人意思。
帰還。
受入地点。
現実側。
一つずつ同じ確認をする。
だが同じ人間ではない。
帰る理由も違う。
《最終意思・確認》
ノノが聞く。
『三浦さん。今も帰りたい?』
「はい」
『何が残ってるか分からなくても?』
三浦は畳んだ紙を握った。
「だから帰ります」
表示が確定した。
主鍵。
副鍵。
結界。
案内層。
re。
すべてが。
また一人のために動き始める。
◆ ◆ ◆
現実側への境界が開いた。
三浦は、高瀬や悠真のように向こう側を見て立ち止まらなかった。
ただ一度だけ。
王都側を振り返った。
「変な話ですね」
ハレルが聞く。
「何が?」
「ここに来た時は、帰り方ばかり考えてたのに」
三浦は王都の白い壁を見る。
「今は、少し寂しい」
ハレルはその気持ちが分かる気がした。
帰りたい場所がある。
だからといって今いる場所で過ごした時間まで
全部嫌いになるわけではない。
「忘れなくていいと思います」
三浦が見る。
「ここにいたこと」
ハレルは続けた。
「帰っても、なくならないから」
三浦はしばらくハレルを見ていた。
そして
「そうですね」
と笑った。
白い線へ足を乗せる。
「じゃあ、帰ります」
「はい」
今度は迷わず歩いた。
◆ ◆ ◆
同期。
五十。
七十。
八十五。
九十三。
リオの副鍵に、わずかに熱が出る。
だがノノがすぐ出力を下げ、アデル側へ負担を流した。
ダミエの結界が出口を固定し、セラが案内層の内部を追う。
「問題ありません」
reの白線も揺れない。
九十八。
九十九。
百。
三浦啓介の姿が、王都から消えた。
そして
現実側へ現れる。
『身体固定、完了』
日下部。
『意識反応、正常』
城ヶ峰。
『三浦さん、聞こえますか』
しばらくして
三浦の声。
『……はい』
『ここがどこか分かりますか』
少しの沈黙。
『日本ですよね』
『はい』
三浦は最初に何をしたのか。
帰還陣の中でポケットから紙を取り出した。
それを一度だけ広げる。
五つの数字
自分が消えないために、何度も書き続けたもの。
『……覚えてる』
小さな声。
『まだ、覚えてる』
◆ ◆ ◆
【異世界・王国警備局/帰還保護区画・夜】
その日の帰還はそこで終わった。
一日に何人まで帰せるかを試すつもりはない。
鍵。
結界。
人間。
どれも限界を調べるために使うものではない。
ノノの一覧から二つの名前が移動する。
《佐野悠真・帰還完了》
《三浦啓介・帰還完了》
高瀬を含めれば現実へ帰った者は三人。
リーネは王都へ帰った。
それでも保護区画には。
まだ人がいる。
候補Aの女性は窓のそばに座っていた。
ハレルが部屋へ入ると。
女性はすぐに聞いた。
「次は……私?」
「違います」
女性の表情が少しだけ緩む。
ハレルは向かいの椅子へ座った。
「帰りたいって決めてない人を、順番には入れないから」
「でも、みんな帰ってる」
「帰りたいって決めた人が帰ってるだけです」
女性は黙る。
机の上には現実世界の写真が何枚か置かれていた。
駅。
住宅街。
コンビニ。
電車。
病院。
いくつかには反応した。
見覚えがある。
だが自分の名前には繋がらない。
家族も。
住所も。
分からない。
「私も、あっちの人なんでしょう?」
「可能性は高い」
「だったら、帰った方がいいんじゃない?」
ハレルはすぐには答えなかった。
「“あっちの人だから帰る”だけなら、俺たちが決めることになる」
女性がハレルを見る。
「でも」
「帰りたい?」
問い返され。
女性の口が止まった。
長い沈黙。
やがて。
「……分からない」
小さな声だった。
「怖い」
「うん」
「名前も分からないのに、向こうへ行って……誰も私を知らなかったら?」
ハレルは否定しなかった。
その可能性もある。
「だから、今は行かなくていい」
女性が顔を上げる。
「ここにいていいの?」
「いいよ」
「いつまで?」
「決められるまで」
ハレルは笑わなかった。
簡単な話ではないから。
ただ、はっきり言った。
「帰らないって決めてもいいし、あとで帰りたいって変わってもいい。
今分からないなら、分からないままでいい」
女性はしばらく
何も言わなかった。
それから、小さく頷いた。
「……もう少し、ここにいたい」
「分かった」
それも。
一つの答えだった。
◆ ◆ ◆
【王国警備局/臨時分析室・深夜】
ノノが一日の記録をまとめていた。
《高瀬直人・帰還完了》
《佐野悠真・帰還完了》
《三浦啓介・帰還完了》
《候補A・判断保留》
現実側。
《リーネ・アスト・王都帰還完了》
《レグナ・フォルス・判断保留》
一人ずつ
同じ方法ではある。
だが、同じ答えではない。
帰る者。
まだ帰らない者。
帰る場所を迷っている者。
セラが一覧を見ながら言う。
「これでいいんだと思います」
ハレルも頷いた。
「うん」
その時
ノノが別の記録を開く。
小さな銀の輪。
候補D。
十一年前から。
異世界側に残り続けている意識反応。
その横。
現実世界。
病院。
眠り続ける男。
《長谷川修一》
ハレルの表情が変わる。
「次は……」
『うん』
ノノが二つの波形を並べた。
『この人』
アデルも画面を見る。
「今までとは違うな」
『全然違う』
高瀬。
悠真。
三浦。
彼らは身体ごと世界を渡った。
だが、長谷川修一と一致する可能性が高い候補Dは
そうではない。
身体は十一年前から現実側にある。
異世界に残ったのは意識だけ。
ノノが静かに言った。
『今度は、人を世界の向こうへ送るんじゃない』
画面の二つの波形が。
ゆっくり重なる。
『意識を、身体へ戻す』
ハレルは眠り続ける長谷川修一の写真を見つめた。
帰る場所が世界ではなく。
自分自身の身体。
そんな帰還が。
次に待っていた。
あいたぴ♡苺もち
133
#日常
寿命㌫(主) 🔮🖤ᩚ
4,539
ひまわり
2,295
谷崎爽奈
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コメント
1件
おお、第285話…!悠真がついに帰還した瞬間、めっちゃグッときたわ。「父さん、老けてるかな」って呟くところとか、緊張と寂しさが混ざってて泣ける。三浦も数字の紙を握りしめて「最後まで自分で確かめたい」って言うの、覚悟感じた。帰る人も迷う人も、一人ひとりのペースで向き合ってるのが沁みるな。次は長谷川さんか…意識だけ戻すって、また違う難しさだな。