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大好きな人の記憶
あれから少し経った。
傷はまだ完治まではいかないものの、身体を動かすことができるくらいに回復した。
……いや、動かさざるを得ない状況になった、というのが正しいのかもしれない。
どうしようもない怒りの感情に支配されて、僕は昼夜問わず剣を握り鍛錬に励んだ。
霞がかかったような曖昧な記憶の中で、“何か”が自分の中の煮えたぎるような怒りを引き起こしているのを感じた。
でもそれが何なのか、何の記憶なのか、どんな出来事だったのか思い出せない。
とにかく腹立たしくて、もどかしくて、苦しくて。
悲しくて、つらくて。
じっとしているとぐちゃぐちゃな感情に押し潰されてどうにかなってしまいそうだった。
だから僕は剣を振るった。
カンカン照りの日も、大雨の日も、風が強い日も。
上の階級の隊士や柱にも稽古をつけてもらって。一心不乱に鬼を退治して。
稽古をつけてくれた柱に、つむぎさんもいた。
とても、強かった。
華奢な身体つきと優しげな雰囲気からは想像もできない、鋭く重い太刀筋。
素早くて、一切の無駄もない綺麗な剣技。
これが木刀でなかったらほんとにスパッといかれていたかもしれない。
どう頑張っても、つむぎさんに一太刀浴びせることは叶わなかった。
大抵、僕が限界を迎えて膝をついて稽古が終わる。
つむぎさんは息ひとつ、髪の毛1本すら乱れていない。
彼女が使う“雪の呼吸”も、元は不死川さんが使う風の呼吸から派生したものだそうだ。
それと、水の呼吸も少し混ざっているらしい。
自分が使う呼吸も風の呼吸が基盤になっているので稽古の相性もよかったみたいだ。
自らを支配する、“何か”への煮えたぎるような怒りの感情と、どれだけ鍛錬を積んでも彼女に勝てない悔しさと、大事なことを何も思い出せない歯痒さに、もうどうすることもできずみっともなく声を上げて泣いたこともある。
その度に、つむぎさんは僕のことをぎゅっと抱き締めてくれた。
包み込むように、優しく。
頭を撫でて、背中をさすって。
僕が落ち着くまで、ずっと。
おぼろげな日々の記憶だったけど、つむぎさんのことだけはなぜだかちゃんと覚えていた。
一緒に任務にあたったこともある。
僕が技を繰り出すほんの僅かな動きに、つむぎさんは素早く反応してお互いの技が邪魔し合わないように彼女の技を出していた。
僕の一瞬の油断で危うい場面も、つむぎさんの剣技に随分助けられた。
格好よかった。
美しくて、強い。
つむぎさんの雪の呼吸の剣技は、まるで舞を舞っているようにも見えた。
それくらい、しなやかで鮮やかで綺麗だった。
いつの間にか、つむぎさんは僕にとって憧れの、大好きな大切な存在になっていた。
『無一郎くん、お饅頭いただいたから一緒に食べよう』
『無一郎くん、いま任務の帰り?お疲れ様』
『無一郎くん、また階級上がったんですってね。すごいわ!』
鈴を転がすような声で呼ばれる自分の名前。
くすぐったくて、あったかくて。
大好きな人に呼んでもらえるだけで、こんなに嬉しいなんて。
記憶を維持できない僕にとって、つむぎさんは唯一の心の支えだった。
このまま、鬼殺隊の仲間としてこれからも一緒に戦っていけると信じてた。
それなのに。
つむぎさんは、僕が剣を握ってひと月経つ頃、稽古中に突然倒れてしまった。
僕はびっくりして慌てて彼女に駆け寄り抱き起こす。
普段は呼吸ひとつ乱さないつむぎさんが、肩で大きく息をしている。
そして、その顔は真っ青だった。
「つむぎさん!つむぎさん!!」
呼びかけてもぐったりしたまま返事がない。
どうしよう!早く何とかしなきゃ!
僕はつむぎさんを抱きかかえて、大急ぎで医務室へ向かう。
軽い……。なんて軽いんだろう。
僕より少しだけ身長が高いくらいなのに。
あんな剣技を繰り出すだけの筋肉があるはずなのに。
あまりの軽さに泣きそうになるのを必死で堪えて医務室へと走った。
つづく