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ほむぺ⋆*
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「あ、ラウールさん!こんにちは。」
「向井様、お待ち致しておりました。」
下町とはまるで別世界の、重厚な洋館。其の門扉の前で姿勢良く待ち受けて居たラウールに向井が会釈をすると、彼は丁寧にお辞儀をした。
「あの、此れ。大層なもんちゃいますけど…。」
そう渡したのは、先日向井が淹れた珈琲の豆だった。
「これはこれは、有難う御座います。どうぞ、御案内致します。」
「…お邪魔しまーす…。」
楽しみにしてはいたものの、向井は緊張で胃を絞られる様な思いで広大な敷地を誇る目黒邸の門を潜った。
「御館様を呼んで参ります。此方にお掛けになってお待ち下さい。」
「あ、はい…。」
ラウールが一礼して退室すると、向井は応接間の大きな椅子に落ち着かな気に腰掛けた。
高い天井からは繊細な意匠が施された西洋仕立てのペンダントライトが垂れ下がり、足元には足音が吸い込まれる様な分厚いベルベットの絨毯が敷き詰められている。重厚な革張りのソファ、磨き抜かれた調度品…そして壁際に整然と並ぶ古洋書の背表紙の数々。下町の自分の店とは何もかもが違い過ぎる壮麗さに包まれ、向井は身を縮こまらせ乍ら、そわそわと手持ち無沙汰に室内を見回していた。
暫くして、濃鼠色の上質な着流し姿の目黒が現れる。その後ろには、カフェセットを載せた台車を押すラウールの姿も在った。すかさず向井は立ち上がり、
「目黒伯爵、本日はお招き頂き…、」
「いつも通りで良い。」
仰々しく挨拶をしようとする彼を制し、少しだけ片眉を上げた目黒が向井の前に腰掛けると、ラウールは洋菓子を置いて丁寧な手付きで珈琲豆を挽いていく。
「無事に着いて良かった。屋敷の者は余計な声を掛けなかったか。」
「全然!…只、やっぱりあんまりにご立派なお屋敷なんで、門潜る時は流石に緊張で胃がキューなりましたわ。」
手を当てておどけてみせる向井に、目黒の口元が仄かに和らぐ。
「此処は無駄に広いだけで、退屈な場所だ。」
「そんな事無いですよ。お庭の手入れも行き届いてて綺麗ですし。」
「…そうか。」
目黒の低く穏やかな呟きに、向井は所在無さ気に鼻の頭をぽりぽりと掻いた。
「そういえば閣下、今日のお召し物も素敵ですね。普段の洋装も勿論ですけど、和装もよう似合うてはりますわ。」
「…屋敷に居る時は、此の方が落ち着くのでな。」
自分を飾らない目黒の佇まいに、向井はほっとした様に肩の力を抜いた。
「──お待たせ致しました。どうぞ。」
雑談の傍らでテキパキと準備していたラウールが、頃合を見計らって珈琲を差し出す。
目黒がカップを持ち上げると、其の馨りに一瞬手を止め、自分の記憶を確かめる様に啜った。
「、此れは…。」
陶器のカップを唇から離し、僅かに目を丸くして手元を見つめる。喉を落ちていった苦みと深いコクの奥に、覚えのある柔らかい甘みが残る。
向井はにんまりと口角を上げ、《戴きます。》と自らも飲み下した。
「向井様より頂戴しました珈琲豆で御座います。御館様のお気に召した代物と伺いましたので、早速淹れさせて頂きました。」
脇に控えていたラウールが、静かな声で恭しく頭を下げた。
「…矢張りそうか。」
納得がいったように目黒が頷くと、向井はうんうん、とラウールの淹れた珈琲に感嘆する。
「俺が淹れたんよりずっと上品で美味いですわ。流石です。」
「お褒め頂き光栄で御座います。しかし乍ら、元の豆の質と焙煎が良いからに他なりません。」
ラウールは洗練された動作で一礼すると、目黒の斜め後ろへと静かに控えた。
「ラウール、例の物を。」
「畏まりました。」
目黒の一声に、ラウールは台車の棚から革装丁の古くも重厚な一冊を恭しく卓の上へと置いた。其れは金箔の題字が刻まれた洋書で。
「…凄い…此れが、以前お話されてた…、」
息を呑み、吸い寄せられるように本を見つめる向井。だが、表紙を捲ると其処に並んでいるのは見慣れぬ異国の文字列だった。彼が《うぐっ》と喉を鳴らして固まると、目黒は視線だけでラウールへ翻訳を促した。
「御館様。恐れながら…内容は既に御存知なのでは?」
「私の認識や解釈を挟むより、直訳の方が彼には解り易いだろう。」
淡々とそう言い放つ目黒に向井は目を白黒させ、ラウールはくすりと小さく微笑み、
「畏まりました。」
白手袋を嵌めた指先で静かに頁を捲り始めた。
「…閣下も読めるんや…別に俺は書いてある意味さえ解ればええんやけど…。」
驚く向井の横で、ラウールは再確認する様に目黒へ視線を滑らせる。
「…読める事と、職人に正しく伝える事は別だ。気になった所があれば彼に聞け。」
其の不器用な気遣いに向井は胸を温かくし乍ら、目の前の原書へと意識を向けて興味の赴く侭に眺めると、ラウールの翻訳に深く耳を傾け始めた。
「──御館様、向井様。誠に恐れ入りますが私は一度…、」
「あぁ。行って良い。」
「有難う御座います。失礼致します。」
「?…あ、翻訳有難う御座いました!」
礼を伝える向井に《それでは、》と会釈をして退室するラウール。その背中を見送った後も、向井は本の古い時計の仕組みが描かれた緻密なスケッチに職人としての目を輝かせ、無邪気に感嘆の声を上げる向井を目黒は珈琲を嗜み乍ら眺めていた。
「…本当に、時計が好きなのだな。」
「へへ、好きっていうか…憧れなんですかね。生まれて直ぐ後に両親を亡くしてから、ずっと爺ちゃんの背中見て育ちましてん。道具の扱いも修理も、全部爺ちゃんが教えてくれたんです。…其の爺ちゃんも数年前に亡くなって…俺が店を継いだんですけど。」
さらりと語られた過去に、目黒は微かに目を伏せた。
「…そうか。お前も、一人だったのだな。」
「え?」
「いや…私と同じだと思ってな。」
目黒は静かに手元のカップを見つめ、自身の過去をぽつり、ぽつりと語り始めた。
「目黒家は代々軍人を輩出する家柄だ。今は亡き父も、厳格な人だった。幼い頃から『伯爵家の嫡男』『軍人』としての生き方しか許されず…感情を捨てる事こそが強さだと教え込まれた。其処に、私の意志等在る訳が無い。」
そうしてそっとカップをソーサーに置くと、目黒は何処か憂いの色を込めた瞳をし乍ら呟いた。
「それに、来年には家系の為の結婚も控えている。」
「──えっ、?」
『結婚』という言葉が耳に飛び込んだ瞬間、向井の胸がぎゅっと締め付けられる様に痛んだ。
(…何でこんな…胸が苦しいんやろ。)
目黒にとっては家の為の決定であり、受け入れるのが当然の事。其れなのに、向井の心はざわざわと波立ち、上手く息が吸えなくなる。自分が何故此れ程衝撃を受けているのか、自身にも解らなかった。只、目の前の男が『自分』と云う存在を殺して生きている事が、堪らなく悲しかった。
「…嫌やないんですか?家の為とか、自分を押し殺して…其れって、あんまりやないですか…。」
向井の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。自分の為に本気で怒り、悲しんでくれる彼に目黒はふっと全てを諦めた様に鼻で嘲笑った。
「其の言葉、妻となる令嬢に聞かせてやりたいな。一番の被害者は間違い無く彼女だ。」
「そんなん、閣下も同じやないですか!」
「されど彼女も又、家の都合で人生を決められた一人だ。私だけが不幸等とはとても云えん。定められたなら、私は従う迄だ。」
「そんな…、」
大勢の部下や使用人に囲まれ乍らも、長らく深い孤独の中に居た目黒の心に彼の温かい感情が静かに浸透していく。
又、何時でも明るく振る舞う向井の過去を知り、彼の其の強さと儚さが、目黒の心を強く引き寄せていた。
(帰る場所が在るというのは、こういう事なのだろうか。)
氷の伯爵と呼ばれた男の胸に芽生えたのは、軍人としての使命感でも伯爵としての義務でも無い。一人の男として、目の前に居る彼への一種の羨望だった。
コメント
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時代だなぁ… 諦めてる🖤を、諦めきれない🖤に🧡が変えていってくれるといいのに!!