テラーノベル
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門扉の前。向井はくるりと身体を翻し、敷地を境に目黒と向き合った。夕刻の柔らかい光が、目黒の着流しの肩口を淡く染めている。
「今日は有難う御座いました!あの…又読みに伺ってもええですか?」
「あぁ。構わん。」
目黒の短くも迷いの無い返事に、向井の顔が華やぐ。
「閣下の御来店も、又…」
「其の呼称も…可能なら、敬語も止めろ。」
「、へっ?」
唐突に発せられた制止の声に、向井は言葉を詰まらせた。見上げれば、目黒は何処か苦々しげに眉を寄せている。其の深い黒の双眸に揺らめいて居たのは、冷徹さ等では無く、胸の奥底に澱の様に溜まった重い寂寥だった。
「息が詰まりそうだ。」
家柄という檻。家名の重責。屋敷に蠢く誰もが自分を当主としてしか見ない中──せめて目の前の此の男にだけは、一人の人間として扱われたい。そんな切々とした飢えに絡めたほんの僅かな弱音が、其の低い呟きに滲んでいた。
向井は一瞬だけ丸く目を見開いたが、直ぐに其の意味を汲み取った様に、にかっと眩しい笑顔を咲かせた。
「ほな、此れからは目黒さんで。流石に誰かが居る時は直すけど…俺の事は康二って呼んでや!」
「…康二。」
名を復唱する目黒に、向井は嬉しそうに頷いて見せた。
「ん、ほなまたな、目黒さん!」
《お邪魔しました!》と軽やかな足取りで去って行く向井の背中を、目黒は何時迄も見送っていた。
数日後。
昼時を少し過ぎた小さなカフェーには、昼食を求める客の話し声と食器の触れ合う音が穏やかに響いていた。
窓際の奥の席に、向井、宮舘、岩本の三人が座して居る。
「ほら、康二。早く食わねぇと冷めるぞ。」
「分かっとるって、照兄が食うの早いねん!」
「お前が其れを使いこなせてないだけだろ。」
目の前に置かれたビフテキを前に、向井は嬉しそうに箸…否、慣れない洋食用のフォークとナイフに苦戦していた。
「…って、カレー余らしてるやん!」
「考えが有ってそうしてんだよ。他人の事は良いから黙って食えって。」
岩本が呆れた様に云う。その彼の隣、向井の斜向かいに座った宮舘が、優雅にサンドイッチを手にし乍らくすっ、と微笑う。
「偶には良いね。こうして皆でゆっくり食事をするのも久し振りだし。」
「最近皆、何やかんや忙しいからなぁ。」
漸く切れた少し大きめの肉を向井が頬張ると、奥から渡辺がトレイを手にやって来た。
「照お待たせ。追加のパン。」
「おっ、来た来た。有難う、翔太。」
平皿にこんもりと盛られたパンに向井は二度見する。
「うわ、量多っ!照兄食い過ぎやって!」
「煩ぇ、力仕事なんだから食わねぇと体力持たねぇだろうが。」
岩本と向井がやいのやいの騒ぎ、すっかり慣れた様子で珈琲を啜りつつ、其れを眺める宮舘。
「お前等、店ん中であまり大きな声出すなよ…。」
渡辺が手際よく空いた皿を片付け乍ら窘めた時、入口の扉に付いた鈴がちりんと涼やかな音を立て、深澤が店に入って来た。
「…おや、珍しい。皆揃ってる。」
「深さんや!今から昼餉?」
「いや、俺は珈琲だけ戴こうと思って。古書の仕入れ帰りでね。」
「そうなん?こっち座りや!」
「じゃあ、お邪魔しようかな。翔太、珈琲を一杯。」
深澤がカンカン帽を脱ぎ、ゆっくりと向井の隣の席に腰を下ろす。
何処にでも在る下町の何気ない光景。歳は多少違えど、昔からの馴染み。小さな頃は常に一緒だったものの、各々が職を持った今、こうして集まれる事自体が最近では珍しい事であった。
「そういや康二、」
店主である父親に深澤の注文を通し終えた渡辺が、トレイを脇に抱えて何気なく口を開く。
「此の前、珈琲豆買いに来ただろ。妙にニヤニヤしてたけど、あれ何だったんだ?」
「…ニヤニヤ?」
向井の手がぴたりと止まる。
「別に何も無かったと思うで?買い出しなんていつもの事やん。」
「そうか?何か良い事も有った顔してたけどな。」
「んー…?………あ。」
ふと思い当たる節が有ったのか、向井がばっと顔を上げた。
「嘘や。其の日は目黒さんの──」
「「「目黒『さん』?」」」
其の場の全員の視線が向井へと集中し、声が綺麗に重なる。
「おっと。」
しまった、という様に向井は咄嗟に口を押さえたが、時既に遅かった。
「へぇ?随分と親し気だね。」
深澤が眼鏡の鼻橋を指先で押し上げ、鋭くも興味深そうな視線を向けた。
「…その、珈琲豆買った日からそう呼ぶようになってん。」
「此の辺りで『目黒』って云ったら…伯爵家しか無いよね?」
宮舘が静かにカップを卓へ置き、言葉を継ぐ。
「前に康二の店から出て来られたのを見た事が有るけれど…あの御方と交流が有ったんだ?」
「うん。つい最近やねんけど、偶に時計の点検にお越しになんねん。ほんで、御屋敷に呼ばれて…珍しい本見せてもろて。交流云うてもそんぐらい。」
向井が包み隠さず話すと、四人の間に少しだけ静かな間が落ちた。下町の小さな時計店の職人と、雲の上の存在である陸軍の少佐。本来なら交わる筈の無い二人の距離感に、誰もが微かな驚きを隠せない。
「…そう、なんだ。」
真っ先に微笑みを浮かべたのは宮舘だった。
「きっと、康二に心を許していらっしゃるんだね。」
「えっ、そうなん?」
思いがけない言葉に、向井はぽかんと丸い目を瞬かせた。
「あの『氷の伯爵』様が、康二にねぇ…まぁ、解らないでもないか。」
「………。」
追加のパンを齧り乍ら呟く岩本の言葉に、向井は返す言葉を失った。
思い返してみれば——初めて店に来た時の目黒は、氷の様に冷たく、近付けない壁を纏っていた。けれど最近の彼は、ほんの僅かではあるものの表情が柔らかくなっている気がする。
先日も自らの生い立ちを話し、そして何より、向井には彼の前で畏まる事を拒んだ。
「…そっかぁ。」
向井は胸の奥をキュッと掴まれたような心地になり、小さく呟いた。じわじわと温かい熱が広がっていく。自分は、あの孤独な人の特別になれているのだろうか。
そう考え込む彼の顔を覗き込み、渡辺が運んできた珈琲を一口啜った深澤がくすりと口角を上げた。
「…嬉しそうだね。」
「え?」
「ん?」
「何か云うたよな?」
「云ってないよ?」
「もう何やねん!なべさん、珈琲もう一杯お代わり!」
「酒みたいに云うなよ。」
店内には再び賑やかな声が弾けた。笑い声の向こうで、店主が手際良く新しい珈琲を淹れ始める。
香ばしく苦い、けれど何処か甘い馨りが店内に広がっていく。
向井は其の馨りを深く胸一杯に吸い込み乍ら、窓の外の青空を何気なく見上げた。
(今度、目黒さんを此処へ連れて来れたらええなぁ。次会うたら誘ってみよかな。)
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