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ナツメが仲間になって数日。ルカ(健二)に、さらなる誤解の連鎖が襲いかかる。ある日の夕暮れ時、一行が森の近くで休憩していると、茂みから一匹のゴブリンが姿を現した。それは群れからはぐれた、見るからにひ弱で、今にも倒れそうな老いたゴブリンだった。
ナツメが瞬時に剣を抜こうとしたが、ルカは恐怖でパニックになり、手近にあった飾り用の細い短剣を振り回しながら叫んだ。
「うわあああ! 来るな! あっち行け!」
ルカは腰が引け、足をもつれさせながら、無我夢中で短剣を突き出した。ゴブリンがよろけてルカにぶつかり、二人は地面をごろごろと転げ回る。健二にとっては、人生最大の死闘だった。
「ひぃっ! 助けて! 噛まないで!」
ルカは涙目で、情けなくゴブリンの腕を振り払おうともがいた。やがて、ルカが偶然突き出した短剣がゴブリンの脇腹をかすめ、ひ弱な魔物は「ギャッ」と短い悲鳴を上げて絶命した。
ルカは肩で息を切り、泥だらけになって地面に座り込んだ。
(死ぬかと思った……。なんだよ今の、強すぎるだろ……ゴブリンってあんなに凶暴なのかよ……)
絶望的な弱さに自分自身で絶望していたルカだったが、周囲で見守っていたナツメや兵士たちの反応は、全く異なるものだった。
「……信じられない」
ナツメが震える声で呟き、地面に膝を突いた。
「アシュフォード様……あえて魔力を一切封印し、あのような錆びた短剣一本で、あそこまで『無様』を演じながら戦われるとは……。あれは、敵の油断を誘う究極の歩法……古の暗殺術『泥中の蓮』ですね!?」
「えっ、泥中の……何?」
「凄まじい采配です!」と、兵士の一人が叫んだ。
「我々のような未熟な兵に対し、『圧倒的な力を使わずとも、泥にまみれて戦う泥臭い勇気こそが真の強さだ』ということを、自らの身を挺して教育してくださったのですね! 完璧な勝利よりも、あのような『苦戦』を見せることの方が、何倍も難しいはずだ!」
ナツメの瞳は、崇拝のあまりに潤んでいた。
「……ああ。あえてゴブリンをすぐには殺さず、一挙手一投足を我々に見せつけるために、わざと手こずってみせたのですね。なんと慈悲深く、情熱的な教育……。真の英雄とは、己の強さを誇示せず、弱者の目線まで降りてこられる方のことを言うのだわ!」
ルカは泥だらけの顔で、ボロボロになった短剣を見つめた。
(いや、普通に死にかけただけなんだけど。教育って何? 俺、必死に命乞いしてたんだけど……)
しかし、ルカが困惑して言葉を失い、黙って空を仰いでいると(単に現実逃避である)、その姿は兵士たちの目に「死闘を終え、亡き魔物にさえ祈りを捧げる慈悲深き若き英雄」として焼き付いた。
「ルカ様! 万歳!」
「アシュフォード家の英雄、ルカ様万歳!」
森の中に響き渡る歓喜の叫び。ナツメはルカの泥を丁寧な手つきで拭いながら、決意を新たにした。
「ルカ様。貴方様の深い教え、決して無駄にはいたしません。私もいつか、貴方様のように『あえて手こずる』ほどの余裕を持てる騎士になってみせます」
こうして、史上最も弱いゴブリンとの「死闘」は、帝国全土に『傲慢さを捨てた英雄の鑑』として、尾ひれがついて語り継がれることになったのである。