カイランは夜会の後からキャスリンに会えていない。会う勇気もない。それでも日々は過ぎていて仕事が山のようにある。仕事をしていると他のことは考えなくていい。忙しくてもそれでいい。夕食も共に取らなくなった。以前のように父上と二人。父上は何も言ってはこない。知っているだろうに、僕から話してみようか、この息が詰まる日々に何かを投げてみようか。そうしたら何かが変わるのかもしれない。夜会で別れてからアンダルの手紙も来なくなった。陛下に泣きついたのかもしれない。僕は何もしてやれない。
今日、キャスリンの具合が悪いとトニーから聞いた。部屋で眠っていると言う。心配だ、様子を見に行きたい。僕の所から数部屋離れただけの寝室に寝ている。こんなに近くにいるのに、行こうと思えばすぐに行ける距離。思い悩む僕に、見舞いに行ったらどうかとトニーが告げる。行きたいが迷惑だと言われたら、嫌いだと言われたら。僕は弱い。どうしてこんなに囚われているんだ。
父から夜会へ行かないなら高位貴族後継倶楽部へ行くようにと言われた。個人の邸ではなく倶楽部専用の邸に集まる。服を着込みトニーを連れて馬車に乗る。
会場に着くと顔見知りが大勢いる。トニーは従者待機部屋で待つ。従者を連れての参加は少ないが初めてだからとソーマに言われトニーを共に連れてきた。この邸には談話が楽しめるよう所々にソファが置いてあり、酒を飲み葉巻を吸いながら各々集まっている。
「これはゾルダーク小公爵」
聞きたくない声が聞こえてくる。振り向いて答える。
「ディーター小侯爵、お久しぶりです」
ディーゼルは僕に酒の入った器を渡し、ソファへ誘う。
「今回から参加ですか。早いですね、もう少し先になるかと思ってましたよ。夜会でも見かけませんしね。ところで我が妹は元気に過ごしていますか?」
笑顔を絶やさず聞いてくる。あれが原因で夜会に参加しないことは想像がつくだろうに、この人は苦手だ。
「妻は体調不良でして、邸で休んでいますよ」
「そうですか、見舞いにでも行ってみるかな。あれからどうです?男爵夫人とは話せましたか?」
なぜここでリリアンの話になるのか、カイランは苛立ち、ディーゼルを睨む。
「どういう意味です?」
「公園で妹に小公爵に会いたい、手紙を読んで欲しいと詰め寄ったと聞いていますよ」
おや?知らない?とディーゼルは言う。僕は知らない。何も聞かされてない。だからキャスリンは寝込んでいたのか?
ディーゼルは笑顔を消し、カイランに顔を近づける。
「君が知らないとはどういうことだ?夫だろう」
その言葉に固まる。夫なんてもんじゃない。ただの同居人に成り下がった。
「妻が手紙でも出しましたか」
ディーゼルは蔑んだように笑う。
「妹がそんな恥を私に話すと思っている時点で君は妹の夫ではない。何もわかっていないんだな」
あきれるよ、とディーゼルが呟いて酒を飲む。僕も我慢ができず酒を飲んだ。キャスリンが話すわけないんだ。僕の恥はキャスリンの恥になるのだから。
「たまたま街に行った我が家の使用人がそちらに行った騎士を見かけましてね、妹の様子も見ようと後を追ったらしい。だが他にも追っていた者がいた。男爵夫人ですよ。それで話を聞いてしまったと、夫人の声は大きいですからね」
どうしてこうなる。どうしてキャスリンにそんなことを。
「実際どうなんです?この婚姻は間違いでしたか、妹はゾルダークに相応しくはなかったかな」
真剣な声でディーゼルが聞いてくる。妹が不幸に向かっていると心配している。申し訳なくてディーゼルを見れない。
「キャスリンはしっかりやってくれてます。大事にしたいんです」
こんなところで泣いてしまいそうだった。不甲斐なくて謝りたくて、もっと強い男になりたくて。ディーゼルは声を落とし僕へ告げる。
「政略でも夫婦なんだよ、歩み寄らなければそこで終わるんだ。愛だの恋だの言っても婚姻したんだ。進まなければ不幸しかない。進めないなら手放してやってくれ」
頼む、と頭を下げるディーゼルに何も言えない。妹のことを想い心の内を語るディーゼルに僕は何を言える。言わなければ進まないのか。
「僕は怖い」
ディーゼルは聞いてくれている。妹を不幸にしている僕の言葉を。
「キャスリンに嫌われるのが怖いんだ」
瞳から涙が落ちる。ここが暗くて助かった。
「キャスと話さないのか」
「聞いてもらえない。あれから一度も見ていない、許してくれない」
ディーゼルはまた酒を呷る。酔いたくなったのだ。
これは相当深くまで妹夫婦に溝ができている。ここまでくるとゾルダークに嫁がせたのが間違いだと後悔しそうだ。ゾルダークの後継がこんなに脆いとはキャスでは対処できないな。とはいえもう後戻りは無理な話。先ほどは手放せと言ったが、事実、手放されたらそれも不幸になる。八方塞がりだぞ。
ディーゼルに不安を溢し少しだけ心が軽くなる。キャスリンと話し合わなければならない。考えながら馬車に向かう。
「カイラン」
いきなりアンダルの声が聞こえ振り向くと馬車留まりの端の方に佇んでいる。驚き急いで駆け寄る。とても憔悴しているようだ。
「どうしたんだ?」
何か悪いことがおきたのか、今にも泣き出しそうな顔で懇願される。
「どこかで落ち着いて話せるか?」
あまり人には見られない方がよさそうだ。僕はアンダルを馬車に乗せトニーは御者台に行くよう命じる。とにかくそこら辺を走り時間を潰すよう頼んだ。馬車は動き出すがアンダルは手を握り頭を抱えて話し出さない。車輪の回る音だけが響いている。
「隣国の商人と仕事をしようと会っていたんだ」
ぼそぼそと話し出す。
「酒を飲んで貿易について話していたのに気づいたら寝台で知らない女を抱いてたんだ」
僕は声を出せない。それぐらい衝撃だった。盛られたのかとすぐにわかる。
「気づいた時には女の中に出してた。抜いたら中からはかなりの量の子種が出てきた。一度や二度じゃない量だよ!媚薬を盛られたのは確かだ、耐性も付いてたはずなんだ。かなり強い薬を盛られた。何度注いだかもわからないくらい腰がだるい」
アンダルの叫びは馬車の音が消してくれるだろう。こんな事態が外に漏れたらどうなるか。
「王家には報告したんだろ?」
していないと困る、国の問題なんだ。
「したよ!すぐに王宮に行ったよ。父上に会って全部話したよ。すぐに近衛を呼んで対処するって、商人を捕まえて処理をすると言われた。女も…」
アンダルは震え出す。
「僕が警戒しなかったから、従者も連れず一人で行って、これが上手くいけば余裕ができると焦ってしまったんだ!」
「リリアンは知っているのか?」
アンダルは反応する。
「言ってない。言えないだろ。でも風呂にも入らず邸に帰ってしまったんだ。とにかく動揺していて、それでリリは僕にどうしたのかって何か知らない香水の匂いがするって騒ぎ出して、責め立てられたんだ。もう黙ってほしくて一人になりたくて飛び出したんだ。ゾルダークの馬車が見えたからカイランが倶楽部にいると思って待ってたんだ」
リリアンは不安で堪らないだろうに。
「落ち着け。陛下が処理すると言ったんなら任せておけばいい。お前が何か動いても面倒なだけだ。忘れるんだ。リリアンには仕事が上手くいかなくて外で酒を飲み過ぎて女に絡まれたことにしたらいい」
アンダルは泣きながら僕を見ている。
「ああ、僕には何もできない。わかってる。だけど情けなくて、僕のせいで沢山迷惑をかけてきたのにまただ!父上も忘れろと言ったよ。だけど知らない女を抱いたんだ。リリ以外の女を!」
忘れることは無理だろうな。アンダルの窮状を目の当たりにして少しずつ冷静になっていく。
「王都を出ろよ。男爵領に戻るんだ。リリアンには言い含めて…」
これ以上面倒事は要らないんだ。キャスリンに接触するリリアンもいなくなれば、また普通の夫婦のようになれるかもしれない。
「なんて言えばいい!リリは王都が好きなんだ。男爵領は田舎で嫌いだと言ってるんだよ!」
「仕事で失敗して王都にいられないとでも言ったらいい。男爵領でもできることはあるだろ?アンダルが王都を離れると言えば付いていくしかない」
アンダルは、そうだよなと呟き落ち着きを取り戻してきていた。
「そうする。このままではまた迷惑をかけてしまう。取り返しのつかないことが起こる前に王都を出るよ。カイラン、リリアンに会っていくか?もう会えないかもしれない」
大きくて愛らしい緑の瞳を思い出す。もうそれは胸を温かくするものではなくなっている。僕は首を横に振る。もう会えなくてもかまわない。心配なのはアンダルだ。謀略に傷つき愛する人を裏切ってしまった心情は想像に難くない。幼い時からの親友、僕の話を聞いてくれ、秘密を共有してくれた。この友を助けてやれないのが悔やまれる。僕はアンダルに抱きつき告げる。
「元気でいろよ。病気はするな。落ち着いたら手紙をくれ」
アンダルは僕を抱き返し、首を縦に振る。
「僕もお前が心配だ。友人は僕しかいないだろう?」
アンダルは僕の心の拠り所だった。それが失くなってしまう。
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