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六月。諏訪が、自分の証を、作った。
知らせを持ってきたのは、灯だった。十七歳の娘は、三度目の木曽行きで、米ではなく、一枚の紙を持ってきた。
「ばあちゃんが、作った」
灯が、机に置いたのは、和紙ではなかった。厚い、茶色い紙。真ん中に、魚の絵。その下に、墨で『湖 干し魚十枚相当 諏訪』。印が、一つ。佐久間の印。
「湖(うみ)って、呼んでる」灯は言った。「木曽の証を、真似した。でも、木曽の証は、木曽まで行かないと米にならない。湖は、諏訪の中で、魚になる。諏訪の人は、湖で魚を買う。木曽の人が来たら、証と湖を、交換する」
要は、茶色い紙を、長い間、見ていた。
印が、一つしかない。佐久間の印だけ。発行の上限は、誰が決めているのか。台帳は、何冊あるのか。
「ばあちゃんは、一人で決めてる」灯は、聞かれる前に言った。「台帳は、一冊。ばあちゃんの頭の中と、紙一枚」
「それは」要は、言いかけて、やめた。
言いかけたのは、「危ない」だった。一人が決める。一冊しかない。佐久間が倒れたら、湖は、紙になる。御殿と、同じ形だ。
でも、要は、それを、灯に言う立場ではなかった。諏訪は、諏訪が決める。要は、他所者だ。木曽の市ですら、他所者だった。諏訪では、もっと、他所者だ。
「……佐久間さんに、伝えてほしいことがある」要は言った。
「何」
「湖は、諏訪のものだ。僕が、口を出すことじゃない。でも、一つだけ。木曽の証と、諏訪の湖を、交換するときの、比率。それは、諏訪だけでも、木曽だけでも、決められない。両方で、決める必要がある」
「比率?」
「証一枚で、湖を何枚と交換するか。今は、干し魚十枚で証一枚。湖も、干し魚十枚。だから、一対一。でも、諏訪の魚が増えたり、木曽の米が減ったりしたら、一対一じゃなくなる」
灯は、首をひねった。
「それ、ややこしい」
「ややこしい」要は認めた。「でも、二つの村に、二つの金があるなら、避けられない」
*
夜、要は、峠の小屋で、ひかりと孫に、二つの紙を並べて見せた。
和紙の証。茶色い湖。
「二つの金が、できた」要は言った。
「悪いこと?」ひかりが聞いた。
「悪くない。諏訪が、自分で金を作った。自分の村で回る金を。それは、諏訪が、市になったということだ」
「じゃあ、いいこと」
「いいこと。でも、新しい問題が、一つ、生まれた」
要は、二つの紙の間に、指を置いた。
「この間に、何かが要る。証を湖に替える、湖を証に替える、そのときの比率。それを、誰が、どうやって決めるか」
「相場の板みたいに」孫が言った。「取引が決める。証一枚で湖一枚、と皆が言えば、それが比率」
「そうだ。でも、相場の板は、一つの市の中にある。証と湖は、二つの市の間にある。板を、どこに置く」
沈黙があった。
要は、頭の中で、大剥離の前の世界を、思い出していた。円と、ドル。円とドルの比率を、誰が決めていたか。誰も決めていなかった。市場が、決めていた。東京の市場と、ニューヨークの市場と、その間の、無数の取引が。
それが、為替だった。
「為替」要は、小さく言った。
「かわせ?」
「二つの金の間の、比率。それを決める場所。大剥離の前は、世界中の市場が、それを決めてた。今は、木曽と諏訪の、二つしかない。二つなら、二つの間に、一つ、場所を作ればいい」
「どこに」
「ここに」要は、小屋の床を指した。「峠の小屋に。木曽から二時間、諏訪から二日。真ん中じゃない。でも、三冊の台帳と、四つの印が、ある場所だ」
*
翌週、佐久間が、峠の小屋に来た。
六十近い女が、二日歩いて、峠を登ってきた。灯が、横にいた。
「比率の話だな」佐久間は、座るなり言った。
「はい」
「わしは、一対一でいいと思ってる。干し魚十枚で、証一枚。干し魚十枚で、湖一枚。だから、証一枚と湖一枚」
「今は、それでいいです」要は言った。「でも、来月、諏訪の魚が、二倍獲れたら」
「湖が、二倍要る」
「湖が二倍になったら、湖一枚の価値は、半分になる。証一枚で、湖二枚」
佐久間は、眉をひそめた。
「……わしの湖が、安くなるのか」
「安くなります。魚が増えたから。魚が増えれば、魚は安くなる。魚の約束である湖も、安くなる。それは、悪いことじゃない。諏訪に、魚が増えたということだから」
「わしが、湖を、増やさなければ」
「増やさなければ、諏訪の中で、湖が足りなくなる。魚は二倍あるのに、湖は同じ。湖一枚で、魚二十枚買える。でも、木曽の人間は、証一枚で湖一枚、湖一枚で魚二十枚。木曽の人間が、得をする。諏訪の人間が、損をする」
佐久間は、長い間、黙っていた。
「……ややこしい」
「ややこしいです」
「だが、あんたの言うことは、わかる。魚が増えたら、湖も増やす。増やしすぎたら、湖が紙になる。増やさなすぎたら、木曽に取られる。真ん中を、探す」
「はい」
「誰が、探す」
要は、ひかりと孫を見た。それから、佐久間と灯を見た。
「五人で」要は言った。「木曽から三人。諏訪から二人。月に一度、この小屋で、証と湖の比率を、決める。五人が、別々に計算して、真ん中を取る」
佐久間は、灯を見た。灯は、うなずいた。
「……わかった。だが、一つ、条件がある」
「何ですか」
「湖の台帳を、三冊にする。一冊は、わし。一冊は、灯。一冊は、ここに置く。あんたの言う、三冊だ」
要は、佐久間を見た。
「それは、僕が言うことじゃないと思って、言いませんでした」
「知ってる。灯が、言ってた。『要さんが、言いかけて、やめた』と。だから、わしから言う。わしが倒れたら、湖が紙になる。それは、嫌だ」
佐久間は、茶色い紙を、机に置いた。
「湖は、諏訪のもんだ。だが、三冊は、あんたのもんだ。借りる」
コメント
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第38話、読み終えたわ。 諏訪が自分たちの「湖」を作ったって話、すごく熱かった。 「二つの金の間の比率」って概念を、この世界観の中でちゃんと描いてるのが渋いし、要が「為替」って小さく言うシーン、めっちゃ滾った。 佐久間が「わしの湖が安くなるのか」って抵抗しつつ、台帳を三冊にするって決断するところも、人間味があっていい。 峠の小屋が二つの村の間をつなぐ場所になる展開、ワクワクする🔥