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第39話、読み終わりました。経済の話って難しいイメージがあったんですが、このエピソードはすごく静かな緊張感があって引き込まれました。特に、要が御殿の権田と似たことをしていると気づく場面。でも「要が倒れても止まらない」という違いが、このシステムの面白さだと思いました。最後の「怖い」という台詞が好きです。道具は誰が使うかで良くも悪くもなる。それを自覚している要の視点が、この物語を支えてるんだなあと。次が楽しみです。
峠の小屋の壁に、板が、三枚目になった。
一枚目は、四つの印。二枚目は、相場。三枚目は、孫が打ち付けた、新しい板。墨で、一行。
『証一枚 湖一枚』
「為替の板」孫は言った。「月に一度、五人で決めて、書き換える」
要は、板を見た。たった一行。でも、この一行が、二つの市を、つないでいる。
七月の最初の週。五人が、峠に集まった。要、ひかり、孫。佐久間、灯。それぞれが、紙に、数字を書いた。先月の、諏訪の魚の量。木曽の米の量。証の発行枚数。湖の発行枚数。それを、全部、足して、割った。
要は、証一枚、湖一枚と出した。ひかりも。孫は、証一枚、湖一・一枚。佐久間は、一枚、一枚。灯は、一枚、〇・九枚。
真ん中は、一対一。
板は、書き換えられなかった。
「変わらないなら、意味がない」灯が言った。
「変わらなかった、ということがわかった。それが、意味だ」要は言った。「来月、諏訪の魚が増えたら、変わる。変わったときに、五人が別々に計算して、真ん中を取る。その仕組みが、今日、一度、動いた」
*
七月の半ば、三つの村に、塩尻の商人が、来た。
商人は、要が、甲府の市で見た顔だった。評判台帳に、丸が十九。手形を、甲府の仲買人に運んだ男。今は、飛脚ではなく、自分で商いをしていた。
「証を、売りたい」商人は、峠の小屋で言った。
「売る?」
「おれは、塩尻で、諏訪の干し魚を売ってる。諏訪で、湖で買う。塩尻で、現金で売る。現金は、まだ、塩尻では使える。少しだが」
「それで」
「湖を、手に入れるのに、木曽の証が要る。証を、湖に替える。でも、おれは、木曽で働いてない。証を、稼げない。だから、証を、買いたい。現金で」
要は、商人を見た。
現金で、証を買う。証を、湖に替える。湖で、魚を買う。魚を、現金で売る。
三つの金が、一人の商人の手の中で、回ろうとしている。
「現金は、三つの村では、使えません」要は言った。
「知ってる。だから、安く売る。千円で、証一枚。千円は、木曽じゃ紙だが、塩尻じゃ、まだ米一キロの半分くらいにはなる。損な取引だ。だが、おれは、証が要る」
要は、考えた。
証を、現金で売れば、証の発行上限の外で、証が動く。三つの村の人間が、現金を手に入れる。現金は、三つの村では使えないが、塩尻や甲府では使える。三つの村の人間が、塩尻で物を買えるようになる。
悪いことではない。でも、証が、三つの村の外の、現金という別の金と、つながる。つながった先で、何が起きるか。要には、読めなかった。
「一つ、聞かせてください」要は言った。「現金は、今、どこから来てるんですか。大剥離の後、新しく刷られた紙幣は、ない。あるのは、大剥離の日に、人の財布にあった分だけ」
「御殿だ」商人は言った。
要は、動きを止めた。
「御殿が、現金を持ってる。東京の倉庫に、大剥離の日のまま、山ほど。権田は、それを、少しずつ、甲府と塩尻に、出してる。働いた者に、現金で払う。現金で、米が買える。御殿の倉庫の米が」
「御殿が、現金を、回してる」
「回してる。御殿の中で。御殿の米と、御殿の現金で」
要は、ゆっくりと、息を吐いた。
権田は、三冊の帳面を作った。評判台帳を手に入れた。そして今、現金を使って、金を回している。御殿の中で。御殿の米を担保に。
権田は、要と同じことを、していた。要より、速く。要より、大きく。東京と、甲府と、塩尻で。
違いは、一つだった。権田の金は、権田の米と、権田の現金と、権田の判断で、回っている。権田が倒れたら、止まる。
要の証は、三つの村と、諏訪と、三冊の台帳と、五人の計算で、回っている。要が倒れても、止まらない。たぶん。
「商人さん」要は言った。「証は、売ります。でも、現金では、売らない」
「じゃあ、何で」
「あなたの、評判で。あなたの丸は、甲府の台帳に、十九ある。それを、証に替える。丸一つで、証一枚。十九枚。その代わり、あなたの丸は、ゼロになる。もう一度、ゼロから、丸を集める」
商人は、要を見た。
「……評判を、金に替えるのか」
「評判は、あなたが、約束を守った数です。約束を守った人間は、信用できる。信用できる人間には、貸せる。十九枚、貸します。半年後、二十枚、返してください。返したら、丸が、二十に戻る」
「返さなかったら」
「丸は、ゼロのまま。二度と、甲府でも、木曽でも、取引できない」
商人は、長い間、考えていた。
「……おれの十九は、三年かかった」
「知ってます」
「三年を、十九枚の紙と、交換しろと」
「三年を、担保に、十九枚、貸す、です。交換じゃない。返せば、戻る」
商人は、笑った。乾いた笑いだった。
「あんた、御殿より、ひどいな。御殿は、働けば現金をくれる。あんたは、おれの三年を、質に取る」
「はい」要は言った。「御殿は、権田さんの米を、担保にしてる。僕は、あなたの評判を、担保にしてる。どっちが、長く持つか。僕は、評判だと思ってる」
商人は、十九枚の証を、受け取った。
三冊の台帳に、書かれた。『塩尻の商人、丸十九を担保に、証十九枚を借用。半年後、二十枚返済。返済まで、甲府の台帳の丸は、凍結』
飛脚が、蝋で封じた手紙を、甲府の会長に運んだ。会長は、商人の名前の横に、線を引き、横に書いた。『凍結。木曽へ、十九』。
為替の板の横に、小さな板が、一枚、増えた。孫の字で。
『丸一つ 証一枚』
評判と、金の、比率。
要は、それを見て、少し、怖くなった。評判が、金になる。評判を、金で買う人間が出る。丸を、売買する人間が出る。
道具は、誰が使うかで、変わる。
「孫さん。その板、まだ、打ち付けないでくれ」要は言った。
「なんで」
「まだ、怖い。怖いうちは、板にしない。一人に貸しただけだ。一人なら、台帳で足りる」
孫は、板を、机の下に置いた。