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翌朝、五時半。
目が覚めたら一人だった。
身体が少し、痛い。
狭くて窮屈だったのに、いつの間にか熟睡していた。
馨の香りに包まれているせいか、彼女がベッドから出たことにも気がつかなかった。
帰りたくねーな。
俺は目覚めの良い下半身に大人しくするように言い聞かせて、渋々ベッドから出た。寝室のドアを開ける。リビングには陽の光が満ちていて、眩しい。
「おはようございます」
馨は台所に立っていた。俺を一瞥して、すぐに手元のフライパンに視線を落とす。
エプロン姿の彼女に、また下半身が疼く。深呼吸をして、気を逸らす。
「おはよう。早いな」
「雄大さんが六時には帰るって言うからじゃないですか」
「お前は寝てればいいだろ」
「そんなこと言うなら、朝ご飯食べさせてあげないですよ?」
香ばしい香りに誘われて、台所を覗き込む。ベーコンエッグにウインナー、マカロニサラダ、フライドポテトが盛り付けられた大皿が三枚。
「お、美味そ」と言いながら、手を伸ばしてポテトをつまみ食いする。
「なんで、三人分?」
「お姉さんの、いらなかった?」
「いいの? サンキュ、助かる」
「顔、洗って来て下さい」
「はーい」
思わず顔がニヤける。
やべぇ。
結婚、いいかも。
馨を助けたくて、馨を自分のモノにしたくて、俺から言い出した結婚。たとえ、馨が家事の出来ない女でも、極度の浪費家でも、文句は言えない。
職場での馨しか知らないのにプロポーズしたのだから、俺の責任だ。
だが、馨は家庭的で、倹約家。仕事も出来て、可愛くて、身体の相性も最高。
一緒に暮らしたら――。
エプロン姿の馨が乱れる妄想を打ち消そうと、俺は冷たい水で顔を洗った。
*****
「あら、昨日は帰ったんですか?」
部屋に入って来るなり、平内が言った。
「馨のとこに泊まると思ったのに」
「泊まったけど?」
「さすが、用意周到。着替えのスーツを置いてるんですね」
「ああ、違う。朝、帰ったんだよ」
「なるほど」
平内はいつものように簡潔に業務報告を済ませ、最後に宇宙展の広報は自分が指揮を執る、と言った。
「馨と一緒に仕事をするのも最後でしょうし」
「本人よりも親友の方がよっぽど馨の立場をわかってるな」
「どういう意味です?」
「俺と結婚した後、馨はどうすると思う?」
俺は部屋の隅に置いてある小さな冷蔵庫から缶コーヒーを二本出し、砂糖入りの方を平内に渡した。デスクの陰になるように置いてあるので、その存在はあまり知られていない。
「専業主婦か立波の重役じゃないんですか?」
「普通、そう思うだろ? けど、それを言ったら、あいつ固まっちまった」
「まさか、このまま働き続けるつもりだったとか?」と言って、平内は長い爪を傷めないように、器用に栓を抜く。
「いや。きっと、何も考えていなかったんだろうよ」
「あーーー……。それ……有り得る」
「あいつ、昔からあんなんか? 仕事とプライベートでは別人だろ。どんなに面倒な案件もこなすくせに、俺に口説かれて逃げようとしたぞ?」
平内がケラケラと笑う。
「馨は素直じゃない上に不器用だから」
「前の男の前でも?」
平内の笑顔が、一瞬にして真顔になった。
「そっちが本題ですか」
「ああ。昨日の帰り際に言った『今度こそ』って言葉が気になってさ」
「ああ……」
平内は少し迷って、きゅっと唇を噛み、話し始めた。
「聞いたのは部長ですよ? 聞いたからって馨を傷つけるようなことは許しませんよ」
「わかってる」
「部長がどこまで知っているのかわからないので、重複するかもしれませんけど――」
「何も知らないと思ってくれていい」
平内はふうっと息を吐き、そして吸った。
「三年前、馨の義父である那須川勲さんが亡くなりました。肺がんを患っていたんですけど、死因は転落死です」
「転落?」
「はい。自宅の階段から落ちたんです。打ち所が悪かったそうです。第一発見者は馨でした」
「え?」
「その日、馨は恋人の高津さんと結婚の報告に那須川さんに会いに行くことになっていたんです。けど、天気が悪くて到着が遅れてしまった。着いた時には、那須川さんは冷たくなっていたそうです」
結婚の報告……。
馨は元カレと結婚するつもりだったのか――。
『私は結婚なんて、しない』
馨は言った。
「高津さんは警察官で、その場を適切に処理してくれたそうです。ただ、その後から二人の関係が上手くいかなくなって、半年ほどして別れたんです。決定打は立波リゾートの社長の椅子でした」
「元カレは警察官を辞められなかった――?」
「そうです」と言って、頷く。
「馨は高津さんが交番勤務から警察署勤務になって、希望部署に配属されるように頑張っているのを見てきたんです。署長賞を貰った高津さんにプロポーズされて、本当に嬉しそうだった。だから、高津さんから天職を奪うようなことは出来なかったし、幼い妹を捨てるような真似も出来なかったんだと思います」
「そういうことか……」
ずっと、不思議だった。
馨か桜の夫が次期社長になるなんて、法的には何の効力もない。嫌だと言ってしまえば済む話だ。血の繋がりがないのだから、籍を抜くという手もある。
だが、そうすると馨は高校生の妹の保護者になり、生活の面倒を見る必要がある。当然、学費の支払いも生じる。
「母親は派手好きで浪費家だったと言っていたな」
「そうみたいです。桜ちゃんの父親の遺産をあっと言う間に使い果たし、亡くなった時は財産なんてなかったそうです。那須川さんの財産は一部を除いては会社名義になっていたらしくて、馨と桜ちゃんに遺されたのは定期型の保険金だけでした。しかも、未成年の桜ちゃんの財産の管理を任されたのは馨ではなくて、立波リゾートの社長である伯父だった。桜ちゃんは当時、超がつくエスカレーター式のセレブ校に通っていて、伯父さんを頼らなければその生活の維持は不可能だった」
「妹の変わらぬ生活と引き換えに、立波リゾートの行く末を背負わされたってわけか」
いつの間にか前のめりになって平内の話に聞き入っていた。背筋を伸ばし、椅子の背にもたれる。
「はい。その結果、桜ちゃんは苦労知らず、世間知らずのお嬢様に育ち、馨は高津さんと別れて黛に狙われるハメになった」
「なるほど……な」
「私が知っているのはここまでです。けど、まだ何かあるようです」
「何か、とは?」
「わかりません。でも、きっと馨は私にも言えない何かを抱えていると思います」
黛を殺したい理由を聞いた時、俺は『全部話せ』と言ったが、馨は話さなかった。
やはり、弱みでも握られているか――?
そもそも、財産目当てで妹に近づいた男を『殺したい』などと言うこと自体、尋常じゃない。
「部長、お願いします。馨を幸せにしてあげてください。立波の社長とか、黛のこととか、この結婚が普通と違うことはわかってます。だけど――」
「普通だよ」
「え?」
「全部後付けだ。俺が馨に惚れて、結婚したいと思った。どこにでもある、普通の結婚だ」
安心したように微笑んだ平内の目に、涙が光ったような気がした。