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「あれー、母上、ほとんど、召し上がってないじゃないですか!」
榦の、呑気な声に、取り越し苦労とも言い切れぬ疑惑に押し潰されそうになっていた場は、和んだ。
思えば、榦は、まだ成人していない。仲達が、臥せっているということで、前倒し的に、髷《まげ》を結い、兄達の補佐をしていた。
末っ子で、皆に可愛がられ過ぎ育ったからか、まだ、正式には、成人年齢に達していないからか、言動には、時々、子供っぽさが現れる。
普段ならば、眉をしかめる場面であるが、今は、曇りきった母、春華の表情を晴れやかな物に出来るのは、榦の、この、子供っぽい、おおらかさしかない。
「母上!私達に、勧めておきながら、ご自分も、しっかりお食べにならないと、お体に響きますよ!もう、病持ちは、ジジイだけで、よいでしょう!」
と、言いつつ、ニカリと笑う。
「おい、榦や」
「お前、何を企んでいる?」
「えー!一の兄様も、二の兄様も、やだなあー!なんですか?その、じっとりとした目。企もなにも、ただ、ジジイに、知らせるだけですよー!」
だからっ!
と、兄達の抗議のような、叱咤のような声を受け、榦は、さらに、顔を緩めた。
「どうでしょう?母上の、この、食欲のなさは、おーい!たいへんだぞー!侍女やー!」
榦の、取って付けたような、空々しい呼び掛けに、春華付きの侍女が飛んで来た。
「あー、ちょうどいいや。お前も、ジジイに、一泡吹かせたいだろ?母上が、食が細いを通り越し、ほら、このように、箸をつけられないのだよ。困ったなあ。大変だなあ。ジジイのせいだろうなあ。と、私は思うのだけど?ジジイは、何と、思うかなあー」
はい?と、侍女は、固まっていたが、何か、榦の、言いたいことを察したようで、誠に!と、これまた、妙に芝居がかった声を出した。
「うん、すまないが、母上の件、ジジイに伝えてもらえまいか?あー、別に、見舞いにこいとか、たまには、本宅へ、戻れとか、そんな事をいってるんじゃなくて、わかるだろ?この、母上のご様子。食も喉に通らない、あれ、母上、いかがいたしました?目眩ですか?あー、大変だあ。なあ、侍女よ」
「本当ですわ!奥様、お任せを!」
言うと、侍女は、足早に部屋を出ていった。
「おい!」
「榦!」
「あらまあ、私《わたくし》は、どうすれば?」
どうもこうも、我らは、今のうちに、しっかり、腹ごしらえしておくだけですよ。と、言いつつ、榦は、残っていたアワ餅に手を伸ばした。
それから、誰が何を言ったのか、まあ、そこは、追求しないでおこうと、師と昭も思うほど、春華についての噂は広まった──。
「途中までは、よかったと思う」
「うん、師兄上の仰る通り、なかなかだった、はず……」
長兄達の視線に、榦は、泣きそうな顔をする。
「あー、まだ、ジジイは、来ないのですかー。このままだと、飢え死にしてしまいますー」
「榦や、無理しなくとも良いのですよ?お前達、母の事は気のせずに、食事をお摂りなさい」
「いえ、ここまで来たら。榦、お前が、しっかりしなくて、どうする!」
「えー、でもー、一の兄様ーー!」
世間では、側室と共に暮らす仲達の見舞いに行った、正室、春華が、何しに来た、この、ババアめが!と、追い返された。あまりにも無情と、春華は、寝込んでしまい、揚げ句、食事抜き、つまり、抗議のために断食をはじめた──と、話が広まっていた。
そして、母親が、断食しているのに、子供が食事を摂ることは出来ない。と、息子達も母とともに断食を始め……、さらに、主《あるじ》達が、断食をおこなってるのに、仕える者が、食事を摂るのは、言語道断と、屋敷の者達も、断食を始めようとしている──。
らしい。
その様な事が起こっている。
屋敷の皆で、断食を行っている。
と、噂は、尾ひれがついて、飛び交った。
きっと、仲達の耳にも入り、何ごとかと、こちらへ、顔を出すだろうと、兄弟達は、読んでいたのに、噂が広まろうと、いっこうに仲達は動かない。
現れたら、多少の嫌みを言おうと、兄弟達は待ち構えていた。
いや、未だ、待っている。
頼むから、早く来てくれ……と。
別段、本当に、断食などしなくても、噂を流しておけばよいと思っていた。しかし、相手は、百戦錬磨の仲達。かの、伝説の軍師、諸葛亮とも、互角に戦った事のある骨太な男。
嘘など、簡単に見破るはずと、兄弟達は、腹をくくったが、実際は、腹が減ってしょうがないという、情けない結果に陥ってしまう。
「それにしても、敵もなかなか」
「うーん、さすがは、仲達ですね」
「そんなの、どーでもいいから、早く、来てくださいよー!」
べそをかく、三兄弟の元へ、侍女がやって来た。
「旦那様がお越しです!」
「あらまあ、床に臥せっておられるのに、わざわざ、お越しになられたの」
春華は、あっけらかんと言い放つ。
一方、息子達は、安堵の息をつきながら、何故か、抱き合っていた。
「このババアめがっ!何様のつもりだっ!」
皆がいる部屋の扉が勢い良く開と同時に、罵声が飛んで来た。
「まあ、旦那様」
「いや、これは、父上、ご機嫌麗しゅう」
「お体の具合は、よろしいのですか?」
「ジジ……今さら、いえ、いきなりのご帰宅で、いかがいたしました?」
仲達は、息子達を見る。
「まったく!!お前達ときたら!!この、ババアめに、乗せられおってから!」
「お言葉ですが、何の話でしょうか?」
「はっ、師よ、お前も焼きが回ったようだな。女々しく、断食だとは!」
仲達は、せせら笑った。
「あー、それですかー、昨日、父上の快気祝いをと、調子に乗って食べ過ぎて、皆、腹を下してしまいまして、食事を控えておるのです」
瞬間、仲達が、戸惑いを見せた。
すかさず、息子達は、反撃に出る。
「父上こそ、御元気そうで、よかった、よかった」
「それだけ、お元気ならば、快気祝いと、弾けたのも、意味がある」
「何せ、母上を、ババアと、呼ぶほどの勢いをみせられるほどですから……」
ひっと、榦が、息を飲む。
この、馬鹿者がと、兄二人から、口を滑らせてしまった榦へ、渋い視線が送られた。
「ははは、そんな、ことだろうと思ったのよ。三人集まっても、その程度の浅知恵か」
大笑いする仲達へ、さあ、どっちも、どっち、じゃないでしょうか?と、春華が言う。
「ババアが口を挟むことではありませんが、とにかく、そこまで御元気になられて、安堵いたしました。これで、この子達も、食事を口にする事でしょう」
ええ、私に義理立てして、まったく、馬鹿な子達。誰に似たのかしらねぇー、と、春華は、一人呟いた。
「旦那様、そうゆう事ですから、決して浅知恵などではありませんのよ。私達の事を思って、しいては、家の事を思って、この子達なりに動いた事。ですから、馬鹿になさるなら、大元の、このババアを、お笑いくださいまし」
「な、なに?やはり、お前か。いいか、私が、いるのは、たまたま、だからな。息子達が、断食をしていると、訳のわからぬ噂を、耳にして、それで、覗いたまでのこと。何しろ、大事な跡取り達だ。ババアに、何かあろうとも、何ともないが、息子達に何かあれば、家が、傾いてしまうわ!」
尚、仲達は、意見する。
「それだけ、喋れたら、床に臥せってなくても、良いだろうに……って、ことはなく、口と、身体は、別物ですよねー!父上!」
仲達は、呆れ顔を通り越し、怒り寸前の表情で、榦を、睨み付けた。
「うわっ、やばっ、怒ってらっしゃる」
焦る弟の姿に、兄二人は、肩を揺らしていた。
何だかんだ、突っかかってくる所を見ると、母の考え、何かしらの理由から、老いて手に終えない振りをしている、というのも、頷けた。
ババア、ババアと、連呼しているが、結局は、妻のことを気にかけ、家のことも気にしている。
単に、口が悪くなった、と、いうべきか──。否、これも、振り、なのか?
とにかく、母の事をちゃんと思っているのは、三兄弟にも伝わって来た。
「……父上?そろそろ、お疲れでしょう?かれこれ、怒鳴られたのですから。今日は、こちらで、お休みください」
「ええ、あちこち動くと、臥せっていた意味がないですよ」
「そうそう、また、仮病かと、疑われてしまいます」
あっ、と、榦が、声を上げ、兄二人へ、助けを求める視線を送る。
が、助け船を出したのは、母の春華だった。
「お疲れでしょう?下女を呼びましょうか?それとも、家令《しつじ》を呼びましょうか?」
「ど、どちらも、いらぬわっ!自分の、屋敷、自分で、部屋へ行くっ!」
「あらまあ、お部屋まで、随分離れておりますのに……。誰か、手を借りた方が……」
ババアは、黙っておけ、と、仲達は、憎まれ口を叩きながら、踵を返す。
が、立ち止まり、
「食事を、摂れ!何かあったら、どうする」
と、ポツリと言った。
「承知しました」
春華の答えに、お前ではないわっ、息子達だ、わからんのかっと、またまた、何やら不機嫌に叫び、部屋を出て行った。
「まったく、素直じゃないんだから」
「つまりは、母上の事が心配だったと」
「えー、だったら、速く来てくれないと、私達まで、ヘロヘロになったのにぃー」
言い出しっぺは、榦、お前だろうに。と、兄達は、弟をからかった。
「結局、糟糠之妻は堂より下ろさず。昔から苦労をともにしたのだ、追い出すようなことはしない、と、いうあれか」
「でも、一の兄様?父上は、ご自分で、出て行ってますが?」
うむ、そうだな。その場合、どうなるのだ?
三兄弟は、考え込んだ。
「まあ、それは、ゆっくり、食事をしながら、考えればよいでしょう?でも、いきなりの物を入れるのは、胃の腑に、悪いわ。そうね、サトウキビの汁でも、用意させましょう」
わー!と、榦が、喜んだ。
──仲達は、その後も、老いたジジイのままだった。
皆、あの仲達も、歳には、勝てぬかと、なかば、諦め加減で接していたが……。
仲達は、政変を起こし、統一王朝、晋国の基礎を築く。
そして、王の位が、子の師および昭に受け継がれていくなど、この時は、誰も思っていなかった。
(了)