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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
離れの灯りの下で、足首は、倍ほどに腫れていた。
「骨は、折れていない」
玲司さんは、私の踵を、自分の膝の上にのせていた。
指で、くるぶしのまわりを、そっと押していく。
痛むところで、私の息が止まると、そこで指も止まった。
玲司さん。
心の中で、そう呼んでみた。
一度、口に出してしまった名前を、もう、喉の奥へ押し戻すことはできなかった。あの人が、坂の上で、私をただの澪と呼んだときから。
「冷やして、固める。明日、東雲先生に見せろ」
「明日は、お団子の練習が」
「澪」
それだけで、私は黙った。
坂の上までの、ほんの五分の車の中で、私は泣きやまなかった。
玲司さんは、一言も話さなかった。ハンドルを握る右手だけで運転し、包帯の左手を、助手席の私の膝の上に、ずっと置いていた。
ムギは、後ろの座席から、私の肩に顎をのせていた。
門をくぐるとき、玲司さんは、母屋の前ではなく、離れの前に車を停めた。
私も、何も聞かなかった。
*
母屋は、静かだった。
ここへ来る前に、玲司さんは、母屋の勝手口から入って、二階の子ども部屋を見てきてくれた。
陽翔は、ぴょんたを抱いて、眠っていたという。
堂島の詰所は、灯りが消えて、車もなかった。
水無瀬刑事は、明日の朝一番に離れへ来る。
巡回の車に、坂の下で、黒い車を探させている、と言った。
「被害届を、出してもらうことになる」
電話を切ったあとで、玲司さんは言った。
「襟をつかんで、引きずり上げた。それだけで、暴行になる。……堂島を、今のうちに、警察の手の届くところへ置いておきたい」
「名前は」
「佐伯凛だ」
わかっていた。
今の私には、それ以外に、書ける名前がない。
右手で、凛さんの名前を書く。
凛さんの命を奪った男の、仲間を捕まえるために。
「……書きます」
玲司さんは、何か言いかけて、やめた。
代わりに、私の手袋の甲を、指で軽く叩いた。
湿布を、足首に当てた。
冷たさに、肩がすくんだ。
玲司さんは、包帯を巻こうとして、左手の包帯が邪魔なことに気づいたらしかった。
自分の左手の包帯を、ほどいた。
手の甲の真ん中に、薄い桃色の、つるりとした皮膚があった。
水ぶくれは、もう引いていた。そのまわりが、わずかに引きつれていた。
私の首と、同じ種類の痕だった。
「痛みますか」
「もう、痛まない」
玲司さんは、その手で、私の足首に包帯を巻いた。
きつすぎず、ゆるすぎず。巻き終わりを、小さく折りこんで留める。
ムギが、私の膝の横で、腹を出したまま眠っていた。
「……口笛を」
包帯を留めた指が、くるぶしの上で止まった。
「一度だけ、聞いたことがある」
玲司さんは、私の足から目を上げなかった。
「三年前。父の葬儀の日。勝手口から帰るとき、庭のどこかで、誰かが犬を呼んでいた。短く、短く、長く」
あの日。
精進落としの支度の合間に、裏庭で、ムギを犬小屋へ呼び戻した。
「さっき、坂で、同じ音を聞いた」
玲司さんは、ようやく顔を上げた。
*
「話を、させてくれ」
玲司さんは、膝の上から私の足を下ろし、座布団の上にそっと置いた。
それから、卓袱台の前ではなく、私の正面に座り直した。
「明日が終わったら、言いたいことがある、と言った。……あれから、何日も過ぎた」
「はい」
「三年前の夏、雨の日だった」
玲司さんの声は、低く、平らだった。
法廷で、事実を一つずつ並べるときの声だった。
「門の前で、追い返された。焼香もさせてもらえなかった。出棺のあと、家の人間が火葬場へ行って、俺は、裏の路地で、一人で濡れていた」
「……覚えています」
覚えている。
黒いスーツの肩が、雨でずっしりと重く濡れていた。門の前で一時間、誰にも傘を差しかけられずに立っていた人。
お茶を出すと、この人は、湯呑みを両手で包んで、しばらく口をつけなかった。
それから、一息に飲み干して、空の湯呑みを、茶托の真ん中に、音を立てずに戻した。
あの戻し方を、私は、どこかで見たことがあると思った。
和館の奥で新聞を読みながら、お茶を飲んでいた、お義父さまの手だった。
「勝手口の戸を開けたのは、喪服の上に、生成りのエプロンをかけた人だった」
私の手が、膝の上で、エプロンの端を握った。
「その人は、俺を仏間に通して、焼香させてくれた。梅と生姜の、熱いお茶を出した。千鳥に畳んだハンカチと、傘を貸してくれた。帰りぎわに、風邪をひかないでくださいね、と言って、一度だけ笑った」
玲司さんは、自分の左手の甲を見た。
「弟の、妻だった」
その一言に、三年分の重さがあった。
「だから、何もしなかった。名前も聞かなかった。調べればすぐにわかったが、調べなかった」
「……」
「三年、何もせずに、想っていた」
離れの、北向きの大きな窓が、夜の色をしていた。
窓辺に、布巾に包んだ月下美人の葉が、乾くのを待っていた。
「あなたが死んだと聞いた日、俺は、初めて、何もしなかったことを悔やんだ」
玲司さんの声が、そこで少しだけ揺れた。
「墓に、通った。花を供えるくらいしか、もう、できることがなかった。……六月に、離れの暗がりで、あなたが左手でサインをしたとき」
ふっと、息を吐いた。
「生きていてくれた。それだけで、もう一度、生まれ直したような気がした」
*
何か、言わなければ、と思った。
喉の奥に、答えがあった。
ずっと前から、あった。お義父さまの葬儀の雨の日の、ずぶ濡れの肩を見たときから、あったのかもしれない。
でも。
「私は」
声が、震えた。
「書類の上では、まだ、御影蒼真の妻です」
左手の、薬指を見た。
指輪は、ない。あの夜、車に乗ってすぐに外して、コートのポケットに入れた。
蒼真は、その指輪で、運転席の凛さんを、妻だと言った。
「しかも、死んでいます。御影澪は、遍照寺の墓の中に。……そんな人間に、答えをする資格は」
「資格の話は、していない」
玲司さんは、静かに言った。
「答えを、今くれとも言っていない」
それから、少しだけ、唇の端を上げた。
「なら、全部取り戻した日に、答えをくれ。あなたの名前も、陽翔も、この家も。……全部」
「……それまで、待たせることに、なります」
「待つのは、慣れてる」
三年。
何もせずに。
この人は、本当に、慣れていた。
私は、玲司さんの左手を、そっと両手で取った。
手袋を、外した。
素手の左手で、桃色の痕に触れた。
左手の人差し指の、白い傷が、その上に重なった。
「玲司さん」
初めて、二人きりで、その名前を声に出した。
玲司さんの肩が、ほんの少し、動いた。
右手が、私の頬に触れた。
擦りむいた傷を、避けるように。指の背で。
顔が、近づいた。
眼鏡の縁が、私の額に、かすかに当たった。
玲司さんは、片手で眼鏡を外し、卓袱台の上に置いた。
一度だけ、唇が重なった。
短かった。
それなのに、一年分の雨の音が、遠くなっていく気がした。
*
唇が離れたとき、玲司さんは、私の額に、自分の額をつけた。
「眼鏡がないと、あなたの顔が、よく見えない」
「……かけて、ください」
「いや」
玲司さんは、目を閉じたまま、少しだけ笑った。
「今は、見えなくていい。あなたが、そこにいるのは、わかる」
「答えは、まだ、いらない」
「……はい」
「だが、今のは、取り消さないでくれ」
私は、小さくうなずいた。
額と額が、こすれた。
ムギが、眠ったまま、尻尾でぱたりと畳を叩いた。
そのときだった。
離れの、北の大きな窓の向こうで。
庭の暗がりの、温室の陰のあたりで。
白い光が、一度だけ、ぱっと光った。
コメント
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「玲司さん…」って声に出した瞬間、息が止まりました。三年前の雨の日からずっと、この人が澪さんだけを見ていたんだなって、その重みがじんわり伝わってきました。最後の窓の向こうの白い光――タイミングが悪すぎて、思わず「待って!」って叫びたくなりました。伏線がちゃんと張られている感じがして、続きが気になって仕方ないです。