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恐る恐る声をかけると、大輔さんの体は跳ねるように震えた。
「いや、いやなんでもないんだ。すまない、ごめんよ。昔好きだったスポーツ選手の名前と同じだと思って、ビックリしちゃってね。……そうか、稲本くん、か」
明らかになにか思うところがある反応だったけど、触れないことにした。なんとなく、母さんが関係しているような気がしたからだ。
得体の知れない反応を見せた母さんと、大輔さんの怯えた表情が、妙に頭の中で繋がる。
母さんと大輔さんの間に、なにかあったんだろうか。こそっと優斗に耳打つ。
「……なあ優斗。お父さんって何歳?」
「え? 四十二だったと思うけど」
「そっか」
うちの母さんは四十歳だ。二学年差なら、どこかで交流したことがあっても不思議じゃない。大輔さんのこの性格じゃ、母さんになにかしたとは思えないし──したとすれば、母さんのほうからだろう。それなら、大輔さんが怯えたのも納得がいく。
そう思うと、なんだか申し訳なかった。
「それじゃ俺と優斗は、少し休んできます。あー、でも母屋に行くときは起こしてくれると嬉しいです。今朝、ちょっとビビったんで」
「ふふふ、じゃあそうするわね。……二人とも、ゆっくり休んで」
「うん、父さんと母さんも少し寝たほうがいいよ。もちろん賢人さんも。──おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみ」
仮眠の挨拶を受けて、俺たちは優斗の部屋に引き上げた。
扉を閉めた直後に部屋の中に響いたのは、疲れきったため息と、布団に倒れ込む音だけだ。精神的なストレスが思った以上に蓄積されていたのか、二人とも言葉を交わす余裕もなかった。
しばらくの沈黙。普段の優斗なら俺に気を遣って、色々話しかけていたかもしれない。けれど今回は俺がちゃんと、忘れずに気を遣うことに成功した。
倒れ込んで身動きしない優斗の背中をゆっくり叩き、そのまま寝ろと合図する。たったそれだけのことが、少しは役に立ったんだろう。優斗はそのまま、すぐに寝息を立てるようになっていた。
静かな部屋で、雨音だけを聞きながら俺は日記に向き合う。
予想外の事件に、俺もひどく興奮していた。こうして起こった事実を書いているだけで、充分小説として面白い作品になってるような気がしているからだ。
本当は、目と体を休ませたほうがいいのかもしれない。だけど記憶が薄れないうちに、どうしても書き留めてしまいたかった。
──気がつくと、もう二時間経っている。家の中からも、なんの音もしない。きっとみんな、疲れて眠ってるんだろう。
少しは俺も眠ったほうがいいのかもしれない。ようやくそう思えたとき、母屋から続いている玄関が乱暴に開いた音がした。
「賢人! 賢人、どこにいる!!」
叩きつけるような音の直後、武さんの大声が家中に響き渡った。ずいぶん怒ってるのか、ドスドスと廊下を踏み鳴らす音までしている。
突然の騒々しさに、ぐったりと寝入っていた優斗が飛び起きた。
「……なに、武おじさん?」
「うん、そうみたい。なんか賢人さんを探してる」
「こんな狭い家なんだし、大声出さなくても聞こえるのに……」
うんざりした優斗の言葉に、いや狭くはないだろうと突っ込みたかったけど──やめておくことにした。全体で見ると大きい家だけど、離れは普通の戸建て住宅だ。全員で集まる母屋の存在を除けば、優斗としては狭い家に住んでいるという認識なのかもしれない。
とにかく怒鳴り散らしている武さんの様子を知ろうと、俺と優斗は部屋を出て、階段下を覗き込むように耳を澄ませた。
「あのしきたりはなんだ、なんの理由があってあんなものがうちに伝わってる! 破ったら──本当に誰かが死ぬのか!」
「落ち着きなさい武、どうしたんだ。賢人くんはここで面倒を見るから気にせずに──」
「大輔くんは黙っててくれ!! 俺が言ってるのはそういうことじゃない!!」
聞いているだけで剣幕が目に浮かぶ怒声だ。しきたりを守るつもりなんてなかったはずなのに、今になってどうしたんだろうと考えて──一つの可能性に気がついた。
たぶん優斗も、考えが浮かんだんだろう。血の気の引いた顔で、階段の手すりを握りしめているのが見えた。
もう少しで、一階に事情を問い詰めに行くところだったと思う。だけど階段を一段下りるよりも早く、賢人さんの声が聞こえた。
「──誰か連れて行かれたんですか、座敷わらしに」
静かだけど、確実に怒っている声だった。
そしてその声がした途端、武さんの声が止まる。俺と優斗も顔を見合わせ、静かにリビングへと近付いた。
磨りガラスの向こうに見えたのは、仁王立ちで向かい合っている武さんと賢人さんだ。大輔さんはその真ん中で、両者の様子を伺ってるらしい。
さっき見た限り、普段の賢人さんは三科本家に対してかなり遠慮した立場を取っていたように見えるのに、今はそんな雰囲気が一切見えない。武さんたちがしきたりを破って食事したことが、かなり頭にきてるらしかった。
そんな中、茜さんがそっとリビングの扉を開けて、中に招いてくれた。軽く会釈して、素早くリビングに入りこむ。
中は思った以上にひりついた空気で満ちていた。
特に緊張感を演出していたのは、賢人さんの表情だ。