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翌日の部活動。体育館にはいつも通り、練習に打ち込む部員たちの熱気と、ボールが床を叩く高い音が響いていた。
けれど、私の中の空気だけが、昨日からずっと停滞したままだ。
(……昨日のあれ、本当にどういうつもりだったんだろう)
ドリンクのボトルを補充しながら、私は無意識にコートの端にいる古森先輩を目で追ってしまう。
先輩はいつも通り、明るい声でチームを鼓舞し、どんな強烈なスパイクも鮮やかに拾い上げていた。
そこに、昨日私の指先に触れた、あの熱くて湿った執着なんて、微塵も感じられない。
「……前原」
「ひゃっ、はい!」
突然真横から声をかけられ、肩が跳ねる。
そこには、マスクを深くつけた佐久早聖臣くんが、冷ややかな、けれど全てを見透かしたような瞳で立っていた。
「……何、動揺してるの。……汚い」
「な、何がですか……! 別に普通ですよ」
「嘘。……元也の方も、さっきからレシーブの精度が微妙にズレてる。あいつ、集中力が切れるときは一つしかない」
聖臣くんはコートの中、ちょうどこちらを一瞬だけ盗み見た古森先輩に視線を向けた。
目が合った瞬間、古森先輩が珍しく「おっと」とボールをこぼす。
「……あいつ、性格悪いから。あんまり真に受けない方がいいよ」
「え……」
「……『拾う』のが得意なのは、バレーだけじゃない。……一度懐に入れたものは、泥がついてても絶対に手放さないのがあいつだ」
聖臣くんはそう言い捨てて、タオルを手に取って去っていった。
……泥がついてても、手放さない。
その言葉の真意を考える間もなく、練習の合間の休憩に入った古森先輩が、タオルを片手にこちらへ歩いてくる。
「鈴奈ちゃん、お疲れ! ドリンク、もらってもいい?」
いつもの、太陽のような笑顔。
でも、受け取るときに一瞬だけ私の指が彼の手の甲に触れると、彼は逃がさないように、ぐいっと私の手を引き寄せた。
「……聖臣と、何話してたの?」
周囲には聞こえない、低い声。
笑顔は崩れていないのに、瞳の奥だけが、昨日体育館の隅で見たあの「笑わない目」に変わっていた。
「あ……別に、練習の話を……」
「……ふーん。……あんまり他の奴と親しくしないで。俺、気が気じゃないんだけど」
彼は私の手からボトルを奪うように受け取ると、わざとらしく明るい声で「サンキュ!」と言ってコートへ戻っていった。
……怖い。
優しい先輩の皮を剥いだ先に、何があるのか。
私は、自分がとんでもない**「聖域」**に足を踏み入れてしまったことを、改めて知ってしまった
合宿三日目の夜。
山の中にある合宿所の空気はひんやりと冷たく、遠くで鳴く虫の声が、静まり返った廊下に響いていた。
「……ふぅ、やっと終わった」
マネージャーのミーティングを終え、私は一人で自販機へと向かっていた。
スポーツ飲料を買い込み、重いビニール袋を提げて歩いていると、食堂の裏にある勝手口のあたりで、数人の男子生徒に呼び止められた。
「ねえ、君。井闥山のマネージャーでしょ?」
振り返ると、そこには見慣れないユニフォームを着た他校の選手たちが三人、ニヤニヤと笑いながら立っていた。
「あ、はい。……何かご用ですか?」
「いや、昼間の練習見ててさ、可愛いなーって。これから暇? ちょっとあっちで話そうよ。連絡先とか教えてくれたら嬉しいんだけど」
グイッと腕を掴まれる。
「やめてください」と声を絞り出すけれど、体格のいいバレー部員に囲まれると、逃げ場がどこにもない。
「いいじゃん、ちょっとだけ。井闥山の奴らには内緒にしといてあげるからさ」
強引に暗がりの方へ引きずられそうになった、その時。
「……あーあ。うちの可愛いマネちゃん、困らせないでくれるかな」
聞き慣れた、けれどいつもよりずっと温度の低い声。
勝手口の影から、古森先輩がゆっくりと歩いてきた。
いつもの明るい笑顔はない。
街灯の下に立つ彼は、まるで見知らぬ他人のように冷ややかな瞳をしていた。
「あ、井闥山の古森……。悪い、ちょっと挨拶してただけだよ」
「挨拶に、腕を掴む必要ある? 鈴奈ちゃんが嫌がってるの、見ればわかるでしょ」
古森先輩は私の隣に立つと、私の腕を掴んでいた相手の手首を、迷いなくパシッと弾き飛ばした。
その力強さに、相手の男子が思わず一歩後ずさる。
「……っ、なんだよ。減るもんじゃねえだろ」
「減るよ。俺の機嫌がね」
古森先輩が一歩踏み出す。
「リベロ」としてチームを支える穏やかな彼の面影は、そこにはなかった。
相手を射抜くような、鋭く、威圧的な視線。
「……俺、リベロだからさ。飛んでくる『悪いもの』は全部拾い上げるのが仕事なんだよね。……次、鈴奈ちゃんに触ったら、拾うだけじゃ済まさないよ?」
静かな、けれど有無を言わせない脅し。
他校の生徒たちは「……チッ、行こうぜ」と吐き捨てるように去っていった。
嵐が去った後の、静寂。
私は震える足で立ち尽くし、「あ、ありがとうございました……」と声を振り絞る。
「……怖かったね。ごめん、もっと早く来ればよかった」
そう言って私を振り返った古森先輩は、いつもの優しい笑顔に戻っていた。
けれど、彼が私の肩に手を置いた瞬間。
その指先に込められた力が、驚くほど強くて、私は息を呑む。
「……ねえ、鈴奈ちゃん」
「……は、はい」
「……あいつらに触られたとこ、すっごい嫌だ。……今すぐ、俺が全部上書きしてあげたいくらい」
彼は私を逃がさないように、そのまま背後の壁へと押し込んだ。
冷たいコンクリートの感触と、目の前にある古森先輩の熱い体温。
彼は私の首筋に顔を寄せ、深く、重い吐息を漏らす。
「……俺以外に、見つからないでよ。……世界中の誰が君を離しても、俺だけは絶対に、君を逃がさないって決めてるんだから」
耳元で囁かれる、執着に満ちた言葉。
優しい先輩。頼れる先輩。
でも、その皮を一枚剥げば、そこには「独占」という名の歪んだ愛情を抱えた、一人の男がいた。
「……返事は、今じゃなくていいよ。……どうせ最後には、俺の腕の中にしか居場所がなくなるんだから」
彼は満足そうに微笑むと、私の手をぎゅっと握りしめた。
その手は、バレーのボールを拾う時と同じくらい、確実で、力強かった。
コメント
1件
え、もう最っ高すぎ!!好きすぎるんだけどぉ!