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ギルバートとこの屋敷で暮らし始めて一ヶ月。
私の生活は、かつての侯爵令嬢時代よりも遥かに贅を尽くしたものになっていた。
没落の影など微塵も感じさせない、金色の静寂に包まれた贅沢な日々だ。
朝、微睡みの中で目覚めれば、彼が自ら淹れたという最高級の茶葉の香りが枕元に漂っている。
昼になれば、銀の食器の上に、私の好物ばかりが色鮮やかに並ぶ。
そして夜になれば、彼は当然のように私の足元に座り込み、今日一日の出来事を楽しそうに聞いてくれるのだ。
今も、ふかふかのソファに深く腰掛けた私の膝に、ギルバート様は大きな頭を預けていた。
外では鉄血の公爵と恐れられ、その名を聞くだけで震え上がる人間もいるほどの男が
私の前では喉を鳴らす従順な獣のように甘えてくる。
そのあまりに極端なギャップが、私の支配欲をこの上なく満たしてくれた。
私が髪を撫でれば、彼は目を細めて至福の吐息を漏らす。
その姿を見るたび、私は彼という猛獣を完璧に躾けたのだと確信していた。
「……そういえば、実家の父から手紙は届いていなくて? そろそろ返事を出したいのだけれど」
ふと気になって、指先を動かしながら尋ねてみた。
私の髪を愛おしそうに梳いていた彼の手が、その瞬間、一瞬だけ止まった。
「手紙、ですか」
彼はゆっくりと顔を上げ、私の瞳をじっと見つめてくる。
その瞳は、深い夜の湖のように静まり返り、光を一切反射しない。
何を考えているのか、その深淵を覗き見ることは不可能だった。
「ええ、届いていませんよ。おそらく、お父上も身辺整理でお忙しいのでしょう。……寂しいですか?」
「別に。ただ、少し様子が知りたかっただけよ」
平静を装って答えたけれど、内心ではわずかな胸騒ぎがしていた。
あんなに私を溺愛していた父が、一通の返事も寄こさないなんてことがあるだろうか。
「……健気な方だ。ですが、ご安心を。私がいれば、あなたに寂しい思いなどさせませんので」
彼は私の手を取り、震える指の一本一本に、深く、熱い口づけを落としていく。
それは愛情表現というにはあまりに重く
まるで目に見えない不可視の鎖を、肌の上に一重ずつ巻き付けていくような執拗な愛撫だった。
「そうだ、明日、お友達のエルザがお茶に来る約束をしていたけれど、そちらの準備は?」
話題を切り替えようと、予定していた約束について尋ねた。彼女とは没落後も唯一繋がっている大切な友人だ。
「ああ、それなら……」
ギルバート様は、ひどく困ったように眉を下げて微笑んだ。
「彼女、急な病でお越しになれなくなったそうです」
「えっ? エルザが? 昨日の手紙ではあんなに元気そうだったのに……」
驚く私を、彼は立ち上がって優しく抱きしめた。
広くて、岩のように硬い胸板。彼の圧倒的な体温が私を包み込み、鼻腔を彼の香りが支配する。
思考がぼんやりと霞み、追求する気力が削ぎ落とされていく。
「仕方ありません。……代わりと言っては何ですが、貴重な茶葉を取り寄せましたので、お家で私とゆっくり致しましょう」
「……ええ。わかったわ」
彼の耳を溶かすような甘い声に促されるまま、私はこっくりと頷いた。
エルザの突然の病気。父からの返事が一向に届かないこと。
重なる偶然に、小さな、けれど鋭い違和感が胸の奥で疼く。
けれど、彼は私を離さない。
私を抱きしめる腕の力は、守られているという絶対的な安心感を与えるのと同時に
決して外界へは逃さないという強固な意志のようにも感じられた。
(そう……私が彼を飼っているのだから、彼が私を独占したがるのは当然よね。私の所有物である彼が、私を求めるのは当たり前のことだわ)
私はそう自分に言い聞かせ、逃避するように彼の首に腕を回した。
その時、彼の唇が私の耳元に寄せられた。
微かな、けれど確かな狂気を帯びた熱を持って、彼は囁いた。
「いい子ですね、ソフィア様……」
その言葉に、背筋がぞくりと震える。
嬉しさと同時に、底知れない沼に足を踏み入れてしまったような奇妙な不安が入り混じり
感情が胸の中でぐちゃぐちゃに渦巻く。
「ギルバート……」
思わず不安を打ち消すようにその名を呼ぶと、彼は私の頬にそっと片手を添えた。
その大きな掌は、火傷しそうなほどに熱く、私の逃げ場を塞いでいた。
「お望みなら、どんな贅沢でも叶えますよ。ドレスも宝石も、誰にも真似できないものを用意します。他に欲しいものはありますか?」
「ええと……今は特にないけど。ギルバートはどうしてそんなに私に尽くすわけ?夫だから?」
私は視線を泳がせる。
今の暮らしは既に過剰なほどで、これ以上贅を増やすことなど思い浮かびもしない。
困惑している私を見つめる彼の目は、狂信的なまでの献身に満ちていた。
「ふふっ、こうしてあなたの側に居られることこそが、私の一番の幸福ですから」
低く、チェロのように響く声に耳朶が熱くなる。
けれど、いつもの私ならここで得意げに鼻を鳴らし、高飛車に笑うはずなのに───。
なぜか、足元が崩れていくような心許ない感情が、胸の奥底で泥のように蠢いていた。
私は本当に、この男の首輪を握っているのだろうか。