テラーノベル
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私はしがないサラリーマンだ。かつて抱いた野望や理想はとうに枯れ、今や若さとも無縁。熱意の欠片もない「屍(しかばね)」のような日々を送っている。妻や子供という「社会的な体裁」すら築けなかった――いや、築く気力もなかったと言うべきか。他人が見れば「あの男は何を愉しみに生きているのか」と訝しまれても仕方のない、潤いのない人生。 だが、不幸のどん底というわけでもない。重いローンや負債があるわけでもなく、何の呪縛も、そして物欲もない。ただ生存するために、その場しのぎの呼吸を繰り返しているだけだ。
そんな折、スマートフォンの広告で「カーシェア」という存在を知った。車を所有せずとも、近所の駐車場にある車を予約し、自由に乗り回せる。退屈な日常に、ほんの少しの彩りが欲しかった。仕事で運転は慣れている。近場ならレンタカーより安く、何より夜間料金は驚くほど破格だった。
私は、ある種の「刺激」を求めていた。きっかけは動画サイトで目にした、夜の心霊スポット巡りだ。これまでの自分なら鼻で笑って切り捨てていたはずの馬鹿げた行為に、なぜか抗いがたく惹かれた。
スマホ一台で解錠を済ませ、夜の駐車場でコンパクトカーに乗り込む。シートを合わせ、ミラーをチェックし、シートベルトを締める。ふと、後部座席を振り返った。不審な忘れ物がないか確認するためだ。
「……何もないな」
そう判断して前を向く。だが、この時の私は気づいていなかった。
なぜ、誰も乗っていないはずの後部座席のシートベルトが、最初から「カチリ」と留め具に差し込まれていたのかを。
車を走らせると、夜の道は驚くほど軽快だった。目指すは、地元で噂の心霊スポット――『泣女(なきめ)トンネル』。峠道の中腹にあり、ナビがなければ辿り着けないような入り組んだ場所だ。私は心霊現象など毛頭信じていない。全ては物理現象か脳の錯覚。そう高を括りながらも、胸の鼓動は早まっていた。
漆黒の闇に包まれたトンネルの入り口に到着し、ヘッドライトを消す。静寂の中、どこからか「……あぁ……」という、女の湿った声が聞こえた。
「誰だ?」
外を凝視するが、誰もいない。だが次の瞬間、バックミラー越しに視線を感じた。
後部座席に、長い黒髪を垂らした女が座っていた。女は私と目が合うと、耳元まで裂けそうな口角を吊り上げ、掠れた声で囁いた。
「こんばんは」
心臓が跳ね上がり、私は反射的に急ブレーキをかけた。タイヤが悲鳴を上げ、車内が激しく揺れる。
パニックに陥りながら外へ飛び出し、後部座席のドアを荒々しく開けた。
――誰もいない。
ただ、そこには「締まったままのシートベルト」が、座席に虚しく食い込んでいるだけだった。
私は逃げるように車を出し、無我夢中でステーションへと戻った。返却処理を済ませ、スマホでロックをかける。最後に窓越しに車内を覗き込むと、暗がりの後部座席で、あの女がこちらを見て「ニヤリ」と笑った気がした。
私は、弾かれたようにその場を後にした。
翌朝。
昨夜の恐怖が、冷めた頭で「脳の疲労が見せた幻覚」に置き換わり始めた頃、私は致命的な事実に気づいた。
財布がない。
スマホで昨夜の利用履歴を確認する。あの車は、既に次の誰かに予約されていた。
私はいても立ってもいられず、再びあの駐車場へ向かった。ステーションには、昨夜と同じ車が停まっている。運転席を窓越しに覗き込むが、シートの上にもフロアマットにも、財布らしきものは見当たらない。
「クソッ……どこに落としたんだ……」
落胆し、立ち去ろうとした時だった。
私は、見てしまった。
後部座席。
例の「締まったままのシートベルト」が、パンパンに膨らんでいる。
まるで、透明な人間がそこに座っているかのように。
そして、そのシートベルトの隙間――ちょうど「腹」に当たる部分に、私の財布が深く、深くねじ込まれていた。
まるで、あの女が自分の胎内に、私との「縁」を無理やり溜め込んだかのように。
私が硬直していると、ガチリ、と音がした。
スマホを操作していないのに、車の集中ドアロックが、内側から解除された。
ゆっくりと、後部座席の窓が下りていく。
中から漂ってきたのは、昨日まではなかった、古い防虫剤と腐敗した泥が混ざったような臭い。
「……探しに来てくれたのね」
車内から伸びてきた、土色の細い指が、私の財布をぎゅっと握りしめた。
それは返却されるための忘れ物ではない。
次、私が「中」に入るための、招待状だったのだ。
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