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Side彼女
車を降りると、助手席のドアを開け腕を差し出した。
恐る恐るつかむ仕草に、初めての場所に緊張する様子がみえた。でもその表情はどこか楽しげだ。
『歩いたらどのくらい?』
『すぐだよ』
鞄からサングラスを取り出す。それを掛けた姿は、いつにも増して色気がある。
入ってまず最初に視界に飛び込んできたのは、一面の色とりどりのチューリップ。ちょうど見頃だ。
『ここら辺全部チューリップの花。赤とか黄色、白もあるよ』
見えている情報をなるべく的確に伝える。
うなずいた彼は、大きく息を吸い込んだ。
『甘い匂い』
まるでスイーツを味わっているかのように、香りを堪能する。
そしてそっと手を伸ばす。触ってみたいのだろう、と思い手を持ってアシストする。
花びらに触れると、わあっ、と小さく声を上げた。
初めてのものに出会った子どもみたいなあどけなさに、ふふ、と笑いが込み上げてくる。
『ぐるっと回ろうか』
腕を引いてゆっくり歩く。
晴れているけれど平日だから、さほど人も多くない。
少し行くと、別の花のゾーンになった。
それは家で彼が絶賛溺愛中のマリーゴールド。オレンジを中心に、赤に近い色や黄色などが咲き誇っている。
「わあ…」
感嘆の息が漏れる。隣を見ると、きょとんとした彼。
『優吾くん、オレンジのマリーゴールドがいっぱい咲いてるの!』
そう言うと、途端に笑顔になった。
その時。
何やら耳元で虫の羽音のようなものが聞こえた。と思えば、目の前を飛んで横切る黒い影。
「きゃっ」
思わず手で振り払い、後ずさりする。
その拍子に彼の手も離してしまった。慌てた様子で辺りを見回している。
すぐに手を取った。私の存在を確認し、表情が和らぐ。
『ごめん、虫にびっくりしちゃった』
『俺は気づけないからな。大丈夫?』
大丈夫だよ、と肩をトントンとした。
『楽しかったね!』
家に帰ると、手を大きく動かしてそう伝えてくる。楽しんでもらえてよかった。私としては、虫が怖かったのだけれど…。
『色んないい匂いがして、妖精になったみたいだった』
妖精? と独特な比喩に笑みがこぼれる。
しかし、彼は真顔に戻って、
『でも……少し怖かった。君が手を離したとき、どこかに行っちゃったのかなって思った。一人になったのかなって…』
『ごめん。うっかり離しちゃった。悪かっ――』
『謝らないで』
動かしていた手を、彼に取られる。
『君のせいじゃないから』
するとその手が腕を伝い、私の輪郭をなぞる。頬を撫で、口元に触れた。彼が顔を近づけた。唇と唇が密着する。
「えっ」
僅かの間、彼は止まっていた。
離すと、なあに、とでも言うように首をこくんと傾ける。
私の中で唐突に愛しさが湧いてきて、彼の胸に思いきり飛び込んだ。
「ずるいよ、優吾くん。私だって」
腕の力を強めた。「大好き」
聞こえていないのはわかっている。なのに、彼は満足そうに口の端を上げてうなずいた。
終わり