コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ノックもそこそこにドアを開けると、やはり大槻の姿があった。太田を前にして険しい顔をしている。簡単にではあるだろうが、斉藤からすでにおおまかな説明を受けたものと想像できた。
「すみません。遅くなりました」
俺の顔を見るなり、斉藤が心配そうに訊ねる。
「笹本は?大丈夫なのか?」
俺は軽く顔をしかめて答えた。
「先生に診てもらっているところです。後は医務室で休むようにと言われてましたので、今日はもう早退させた方がいいと思います」
「そりゃそうだよな。あんな目に遭ったんだ」
俺は大槻に向き直って続けた。
「後で部長からもひと言、田中課長に口添えして頂ければ。それから、斉藤さん。色々と助けて頂いて、ありがとうございました」
俺は斉藤に感謝の気持ちを伝えようと頭を下げた。ところが顔を上げて見た斉藤は、困ったような顔をしている。
「いや、その、どういたしまして。ところで……」
斉藤は太田の方へちらりと目をやってから言った。
「少なくとも俺が見たことは、部長に話した。だけど太田はそれを認めるつもりはないらしい」
大槻は眉間にしわを寄せて俺を見た。
「太田君は、何かの間違いだと言っているんだ」
太田が大槻に訴えるように口を挟んだ。
「何度も言いますが、斉藤さんと北川さんの勘違いです。笹本さんに乱暴なんてしていません。たまたま手がぶつかったりしただけで」
頬を腫らし、唇を切った碧の様子を、俺は間近で見ている。それなのに、太田はすぐに嘘だと分かるようなことを平気で言っている。怒りがふつふつと湧いてきた。しかし感情的にはなるまいと気持ちを抑え込み、薄く笑顔を貼り付けた。
「そうですか。太田さんは何もしていない、すべて偶然、偶発的なものだったと……。分かりました。では改めて私の方からも部長に説明しましょうか。斉藤さんは、もう席に戻って下さっても大丈夫です。本当にありがとうございました。あ、そうだ。斉藤さんにいくつかお願いが。一つは課の皆さんに何か聞かれたら、彼女は体調不良で、とでもうまく言っておいていただけませんか。課長には後で改めてお話します。それと、田苗さんにお願いして、ロッカーから笹本さんの荷物を取って来てもらいたいんです。鍵は総務課でスペアを保管していますよね?」
斉藤は俺が「碧」と呼ぶのを聞いている。恐らくはもう、俺たちの関係に気づいているだろう。特になぜと聞くこともなく、あっさりと俺の頼みを請け負ってくれた。
「色々了解した。荷物も用意してもらっとくよ。それは後で北川さんに渡せばいいんだな?他にも何かあったら、遠慮なく声かけて」
「はい。ありがとうございます」
軽く頭を下げた俺に、斉藤はやはり困惑気味の固い笑みを見せて応接室を出て行った。
少なくとも部長と近しい関係だってことには気づいたかな――。
心の中で苦笑しつつ斉藤を見送ってから、俺は改めて太田の前に立ち、それから大槻に訊ねた。
「斉藤さんからは、どこまで話を聞いたんですか?」
「資料室での一件について、だいたいのところはね。だけど本当なのかい?まだ信じられないんだ。まさかうちの社内でこんなことが起きるなんて」
半信半疑という顔の大槻に、俺はきっぱりと言い切った。
「残念ですが、本当です」
「証拠は?」
「証拠ですか?まず、資料室での一件については証人が二人います。俺と斉藤さんです。それに彼女の顔などには、乱暴された痕も残っています」
大槻の眉間にぐっとしわが寄る。
「ちなみにざっと見た時点でのことではありますが、高階先生は、それらの痕を他人からつけられたものだと判断できると言っていました。さらに詳しく診察すると言っていたので、もしかしたら他にもそう言った痕が見つかるかもしれません。併せて診断書もお願いしてあります。それから、その時の様子は、資料室の監視カメラの映像に残っている可能性が高いと思われます。この後、見せてもらいに行こうと思うんです。太田さん、あなたも一緒にどうですか?その方が色々と話が早いでしょう?」
「監視カメラ……」
太田が呆然としたようにつぶやくのが聞こえた。
大槻が冷静な声で太田に問う。
「太田君、本当のところはどうなんだ」
「私は……」
太田が言葉を濁したのを見て、俺はさらに言葉を続けた。
「ちなみに、あなたが彼女に乱暴を働いたのは、今回のことだけじゃないですよね。それについては本人からも聞いているし、証言してくれる人もいます」
太田が俺を睨みつける。
「周りには言ってなかったが、笹本は俺の彼女だ。俺は彼女を愛している。そんな俺が、彼女に乱暴を働くような真似をするはずがないだろう。今回のことは偶々だ」
「今回だけ?仮にそうだとしても、本当に彼女を愛していると言うのなら、大切なその人の顔を腫れるほど叩いたり、痕が残るほど手首をつかんだり、そんな真似などできるはずがないでしょう」
今回の他にも、これまでさんざん彼女を傷つけるようなことをしていたくせにと、はらわたが煮え繰り返りそうになった。
「君はこれまでも、笹本さんに対して常習的に暴力的なことをしていたようじゃないか。その痕を俺の他にも見ている人がいるんだ。それでも自分のやったことを認めないと言うのなら、今俺の手元にある証拠や証言をすべて君の前に並べようか。それらを基にして君を訴えることもできるんだが」
太田がぎりっと歯を噛みしめる音が聞こえた。
彼は俺を射殺そうとでもするような目つきで睨んでいる。
「俺から笹本を奪ったくせに……。彼女を返せ」
奪った。返せ。太田は自分本位の言葉を口にする。
自分がこれほどまでに冷たい声を出せる人間だったのかと思うほど冷ややかに、俺は彼に言った。
「奪うとか返せとか、彼女はモノじゃない。それにもう、彼女の心に君への想いは微塵も残っていない。そのことは、本当は君もよく分かっているはずだ」
太田は自分の膝をつかみ首を横に振った。指の関節が白くなっていた。
「そんなはずはない。俺は笹本を愛している。その気持ちは伝わっているはずなんだ」
彼女を傷つけたことを認め、謝罪の言葉の一言でも聞けるかと思っていたが、俺が甘かったのだろうか。太田はまだあがこうとしている。
「だったらどうして彼女は君から離れたがっているんだ?彼女は君のことを恐がっている」
俺は腕を組んで太田を見下ろし、清水から得ていた例の情報を持ち出そうと決める。
「ある筋から聞いたところでは、君は以前にもそうやって、交際相手にDVめいたことを行っていたんだってね。そうだ、ところで一つ聞きたいことがあったんだ。太田さん、ここに転職してくる前にいた会社は、どうして辞めたんですか?」
太田は一瞬息を飲んだ後、弱々しい目で俺を睨みつけた。
「その話は今関係ないだろう」
大槻が顎を撫でながら俺に問う。
「その質問には何か意味があるのか?」
「あると言えばあります。太田さんが自分で答えられないのなら、先方に照会をかけてみればいいだけの話です。部長、後からでいいので、彼の前の会社の人事にでも聞いてみてもらえませんか?ストレートに聞いても答えてもらえないのなら……。例えば、うちの取引先でもあるA社の営業部長に、直接聞いてみてもらうのがいいかもしれませんね」
大槻が瞬きした。なぜ俺がそんなことを言い出したのかと不思議そうだ。
「A社の営業部長?彼は私の大学時代の後輩なんだよ。この一年くらいは直接連絡を取り合ってはいなかったが……。なんなら今すぐにでも電話してみようか」
大槻はジャケットのポケットに手を入れた。
「そ、それは……」
太田の顔から血の気が失せた。
大槻は太田の表情を読み取るようにじっと彼を見てから、念を押すように俺に訊ねた。
「なぁ、拓真君。やっぱり本当なのか?太田君が笹本さんに乱暴を働いたっていう話は」
俺ははっきりと頷き肯定した。
「本当です。さっきも言った通り、証明だってできます」
「ちょっと待て。その呼び方……。そう言えば、確か電話でも……」
太田の表情が固まっている。
俺は大槻と顔を見合わせた。
大槻が「どうする?」とでも言いたげに目で問いかける。
俺は苦笑した。俺と会うのもどうせ今日が最後になるだろう。餞別代りに教えてやっても構わない。
俺の表情から言っても構わないと悟った大槻が、おもむろに口を開いた。
「彼はね、事情があって一般社員としてここで働いているが、地位的には常務なんだ。ついでに言うと、私の甥でもある」
「えっ……」
太田の顔から血の気が引いたのが分かった。
「そんな大そうな事情でもないんだけどね」
いや、俺にとっては重大な事情だったな――。
俺は肩をすくめて大槻に苦笑を向けた。それから表情を引き締めて再び言葉を続ける。
「とにかく、さっきも言ったが、君が彼女にしてきたことはすでに聞いている。そのひどい状態を実際に見てもいる。言い逃れはもうできないんじゃないのか?公私は確かに別かもしれないけれど、だからと言って、プライベートで何をやってもいいというわけではないと思うのだけどね」
今や顔面蒼白状態の太田から大槻に目を移し、俺は言った。
「笹本さんの怪我は、一見してはそうひどいものではありませんでした。けれど、同僚への暴力というこの件は、解雇案件として処理できると思われます。また、過去のことではあるけれど、彼はうちの取引先の関係者の身内とトラブルを起こしている。そういった問題のある人間を雇用し続けるのは、会社的にどうなんでしょうか」
「ちなみにそのトラブルというのは?」
「先ほど話の中で触れたDVです」
「A社の部長に、と言ったのは、あそこのお嬢さんに関係があることなのか?そう言えば何年か前に、体調を崩しているという話を耳にしたことがあったが……」
「それ以上は俺の口からは……」
「分かった。A社の部長にはそれとなく聞いてみよう」
大槻は腕を組んで太田を見た。
「理由はどうあれ暴力を振るうなど、とんでもない話だ。さらに、A社は我が社にとって重要な取引先。今回の件を見て見ぬふりというわけにはいかないな」
太田はがたがたと震え出した。
それを横目で見て俺は大槻に言った。
「この後専務と社長にも報告しますが、この件は懲戒解雇の方向で進むと思います。その時は諸々よろしくお願いします」
大槻は苦笑いを浮かべた。
「どうせもう決定事項なんだろう?社長たちに否と言わせないための証拠は、全て揃っているようだしな」
俺は太田を見下ろした。本来はこういうのは好きではないが、高圧的な態度を取る。
「念のために言っておくけれど、仮に今回の処分に納得がいかないからと言って、会社や俺を訴えようしても無駄だよ。就業規則上にも記載されている事項だしね。でもそれ以前になぜこうなったのか、自分の行いをじっくりと省みたらいい。それでも戦うというのならいつでも受けて立つ。ただし、君にとって不名誉なこの件がこれ以上周囲に晒されないように、一応は配慮して今こういう形で説明してあげている。それを覚えておいてほしい。それともう一つ。彼女は俺の婚約者になる人だ。今後また彼女に何かするようなことがあれば、今度は容赦なく対応させてもらうからそのつもりで」
「笹本のことはもう諦めます。だからどうか、解雇だけは……」
弱々しい声の太田に、大槻は厳しい顔を向ける。
「太田君、残念だよ。以前のトラブルをこちらでも把握できなかったとは言え、今回のようなことを仕出かしてしまったのでは、何ともしようがない。反省も自戒の念もなかったということになるからな。このまま帰りなさい。その後のことは追って連絡する」
「お願いです、もう一度だけチャンスを……」
土下座しようとする太田を止めて、大槻は憐れむような目を向けた。
「それをする相手は間違っているんじゃないのか?もう一度言う。自業自得と諦めて、自宅で大人しく連絡を待ちなさい」
最後の言葉を聞き分ける耳はあったのか、太田はうな垂れたまま力なく立ち上がり、よろよろと今にも倒れそうな足取りで応接室を出て行った。
それを見送ってすぐに、大槻は内線電話に手をかけた。太田の上司である経理課長にかけるのだろう。
「大槻ですが、応接室まで来てもらえますか。話があってね」
俺は太田が座っていた場所に腰を下ろして、深いため息をついた。ひとまずは終わった。それにしても大槻が最後まで話を聞いてくれてよかったと、改めて安堵した。
「伯父さんに止められないで良かったよ」
大槻は苦笑した。
「止めるも何も、すべて事実なんだろう?それならこの流れは当然だった。理由が何であれ、同僚に乱暴を働くような社員はいらないしな。しかし彼は最後まで笹本さんに詫びる言葉を口にしなかったな。ところで……」
大槻が言葉を切り、俺の顔をのぞき込む。
「さっき話の中で、笹本さんを奪ったとか返せとか、聞き捨てならないような言葉が聞こえたんだが」
「彼女とは最近付き合い始めたんだ。でもあいつから奪ったわけじゃない。色んな意味でそういうタイミングだったってだけだよ」
「ほほぉ……。それは一般社員として働くことにした話と何か関係があるのか?」
「さぁ、どうだったかな」
俺は笑って流す。信頼している伯父だからと言って、すべてを話すつもりはない。
「それにしても、笹本さんは大変な目に遭ってしまったものだ。今回のことで彼女がトラウマを負わないか心配だな」
「俺がいるから大丈夫だ」
きっぱりと言い切る俺を見て、大槻は少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに笑顔になった。
「そうか、それなら心配ないな。……それからもう一つ」
「何?」
「さっき、彼女は婚約者になる人だとか言っていたが、そろそろ身を固めることを考えているのか?」
「それはまぁ……」
実際は彼女とはまだそんな話をする以前の状態だが――。
「彼女がうんといってくれるんなら、俺は彼女と結婚したいと思ってる」
「なるほど……。私も笹本さんにはよく仕事を頼むから分かるんだが、彼女は本当に優秀な社員でね。以前、秘書課にどうかって打診が来たこともあったくらいなんだ。だけどその時彼女は、自分には荷が重すぎると言って断ってしまってね」
「そんなことが……」
太田から守ることを決めた時、当初さっさと役員席に戻って彼女を秘書として傍に置こうかと考えたことがあったのだが……。
「そうだとすると、俺の秘書になってくれと言っても、断られる確率の方が高いか」
「さて、それはどうだろうね。つまりだ。もし結婚を考えているなら、その時はもちろん祝福するけれど、笹本さんにはできるだけ長く働いてほしいわけだ」
大槻の言いたいことがようやく分かって俺は苦笑する。
「だけどそれは彼女次第だろ」
「それはそうなんだけどね」
そんな話をしている所に控えめなノックの音が聞こえた。
俺たちは私語をやめて居住まいを正した。今の件について話さなければならない。
これでまた俺が役員だってことが知られてしまうな――。
俺は小さく苦笑いを浮かべた。